コラム
浪漫派宣言
和嶋慎治(人間椅子)
「人間椅子」のギター&ヴォーカルとしてデビュー以来、唯一無二の世界観を貫き、多くのアーティストに影響を与えてきた。そのサウンドの要となるのは、確かな技術に裏づけされた独創的なギタースタイル。2013年8月7日に、通算21枚目(含ベスト盤)のオリジナルアルバム『萬燈籠』をリリースした。

第八回 疾風怒濤、あるいは満身創痍


 十月、十一月の前半と、ほとんど不眠不休であった。(などといっているうちに早十二月なのだが)それは、12/1に発売されたアルバム、『疾風怒濤~人間椅子ライブ!ライブ!!』の制作にかかりきりだったからなのだった。
 純然たる新作ではなくライブ盤だしな、と高をくくっていたら、よく考えたらCDは二枚組だしDVDも付く、労力としたら三枚組以上のものがあり、TD作業だけでも朦朧となってしまった。
 加えて十一月頭にはファンクラブの集いがあり、なぜだか例年になく参加者が多くて(お越しくださった皆さん、本当にありがとうございました)、僕らとしてもいつも以上に仕込みに力が入った。僕らには露出という点でどうしても足らないところがあり、にもかかわらずこうして新しいお客さんが来てくれるのは、有り難いことだ。

 相当疲れていたものらしい。集いの次の日は普通に午前中に起きれたが、夜になって猛烈な眠気がする。月曜の夜早い時間に寝て、目が覚めたら水曜の朝だった。
 都合三十時間の睡眠だ。昔、忌野清志郎さんが初の武道館公演を終えた後、丸二日間寝てしまったという話を聞いて、それは眉唾だろうと思っていたものだが、人間緊張と疲労の極に達すると、そのぐらいは寝込むもののようだ。
 あれには本当に驚いた。尋常でない空腹感ときしむような節々の痛みに目が覚めて、日付を見たら一日飛んでいたのだから。

 『疾風怒濤~人間椅子ライブ!ライブ!!』は、人間椅子初のライブ盤だ。ライブビデオはあるものの、CDの音源としては初めてである。
 ライブ盤を出したらいいのに、というお声は、前々からいただいていた。もともと自分たちの楽曲は、ライブでその真価を発揮するようなスタイルだ。そうして年季を積んだ賜物とでもいうのか、まれに魔法のような演奏が現出するようにもなった。ただ僕らは往年のロックを聴いてきたせいもあり、ライブ盤には特別の思い入れがある。また諸々の準備のことを考えると、なかなか踏ん切りはつかないのだった。

 今年の初め頃だったか、東名阪で企画されていたあるイベントが流れ、日程が空いたから、僕らにワンマンでやらないかとのお誘いが来た。普通のライブにしてもよかった。だが、今年は新譜の録音はまずないだろうし、ライブ盤を出すなら今しかない、この僥倖のようなタイミングを逃す手はあるまいと思った。いつかできると思っている限り、その機会は永遠に訪れない。

 何回もミーティングを重ねた。
 本来音楽とはライブのものであり、それを何とか記録に残そうと譜面が考案され、百数十年前には蓄音機が発明された。以来爆発的に音楽は広がりを見せていくわけだが・・・・一切のものは移ろい、形あるものは皆流転していく。我々が今親しんでいるCDも、早晩なくなりそうな気配である。そこまで見越してというわけではないが、今後活動を続けていくためには、かなりの程度まで自分たちでやっていかなくてはならないだろう。そういった意味で、今回のライブ盤は、挑戦と実験を兼ねているのだった。
 録音エンジニア、ビデオスタッフ、カメラマン、デザイナーすべて、限られた予算の中で、自分たちの音楽に情熱をもって協力してくれそうな方々に、人脈を駆使して頼んだ。(そう、いい作品を作るために最も必要なものは、金銭でもなく設備でもなく、情熱なのです)本当に、皆さん骨身を惜しまずに協力してくださった。

 こちらも骨身を惜しんでなどいられない。
 が、準備期間中にもかなりのストレスがかかっていたのだろう、『疾風怒濤』ツアーひと月ほど前に、僕は帯状疱疹になってしまった。東北弁でいうところの、つづらごだ。脊髄を中心にどちらか片一方の神経に沿って疱疹が出る病気で(僕は右側)、別に生命にかかわりはしないものの、かなり痛い。
 また、DVDを撮るということで、僕はその前から歯医者に通い出していた。最初は歯のタバコヤニを取るだけのつもりだった。歯医者に行くのは実に小学校の時以来だったが、そうしたら案の定虫歯が大量に発見されて、長期通院を余儀なくされた。結果『疾風怒濤』本番まで、僕は医者の掛け持ちをする羽目になったのだった。

 帯状疱疹はきちんと治療しないと、後々神経痛が残るといわれた。腕が痛くてピッキングができないでは元も子もないので、神妙に通院した。
 点滴、投薬は病人気分に浸るようでさほどのものでもなかったが、たまげたのは首の神経にする注射だった。少なくとも今までに味わったことのない痛みだ。あまりの激烈な痛みに脂汗を垂らしながら、「あの・・・・これ毎回するんですか」「ええ。神経痛の予防のために、週に三回はこの注射を打ちに来てください」
 痛いだけあって効果はてきめんで、速やかに体右半分の神経やら筋肉やらが弛緩、数時間は顔面が麻痺し、声も蛙のような声しか出せなくなる。とても外を出歩ける状態ではなく、掛け持ちする日は、歯の治療~疱疹治療の順にすることにした。
 診療台に座り、歯茎に麻酔注射を打たれ、頭蓋骨に響くぐらいに口腔をゴリゴリいじくり回される。ぐったりしながら次の病院に向かい、首の神経に信じられないほどの痛さの注射を打ってもらう。まるでお金を払って、わざわざ拷問を受けに行ってるようなものだなと思った。家に戻ってしばらくは、脱力、放心してしまう。
 ある作家の方が書かれていたが──少年時代のビンタを例として──繰り返される一定量の肉体的痛苦というのは、しかし慣れるのである。経験から痛みの程度の予測がつき耐性ができるとでもいうか、僕の首の注射も然りだった。まだまだこんなもんじゃないだろう、これからだって、どんな痛みが待っているか知れやしない・・・・なかば平然と、甘んじて痛苦を受け入れている自分がいるのだった。(ところで精神的苦痛は、慣れるということがない。それは毎回が応用問題で、新鮮な痛みだ)
 とはいえ体は正直なもので(そりゃそうだ、病気なんだから)、ひと月ほどでげっそりと痩せてしまった。

 まさか人生の中でも痛々しいほど痩せた時期に、DVDを撮ることになるとは思わなかったが、致し方ない。あとはベストを尽くすのみだ。

 東名阪と三ヶ所音源を押さえた。お客さんもライブ録音ということを意識してか、どの会場も異様な熱気と、緊張感、興奮に包まれていた。
 総じて素晴らしいライブだった。初日の名古屋はやや硬かったが、音を聴くと、特に後半からはきちんとライブしている。

 ラフミックスを聴きながら、あるいはTDをしながら、何度も感動に襲われた。

 オープニングのSEは、僕が十七歳の時に作ったものである。ビートルズの「レボリューション9」のようなミュージック・コンクレートを目指したのだった。No.9には、反戦、革命、反骨、郷愁、家庭的な愛への希求といったものを感じる。僕が意図したのは、狂気、孤独、終末、啓示といったものであった。
 戦争の開始を告げるラジオ放送を入れたり、ギターの逆回転を入れたりした。売り物の効果音を多用したため出来はそれなりだが、その頃からテーマがほとんど変わっていないことに、あらためて驚く。

 二十歳を過ぎてすぐに、自分は十代の頃の尖鋭さを失ってしまったことに気が付いた。あの頃はすべて想像力に頼っていたものだが──だから不謹慎なことも平気で書けた──その源泉を垣間見ることに恐怖を覚えだしたとでもいおうか。あるいは現実との落差に口を閉ざさざるを得なくなったかのような。しかし郷里の友人鈴木君とまた僕はバンドを組み出し、やはり自分は表現することに喜びを見い出す種類の人間なのだと思うようになった。最早想像力に頼り切ることはできないにしても、そこを起点として、現実との格闘、和解、いくらでも書くことはあるはずだ。

 ライブ盤には、十代に作った曲から四十代の現在の最新作まで、余すところなく網羅されている。そしてどの曲も何を表現したかったのかが自分にはありありと分かり、一貫したものを感じる。
 もちろん僕だけが曲を作っているのではない。ほとんどの曲は、僕と鈴木君によるものだ。また自分の作品が、必ずしも皆に受け入れられるわけではないということも、知っている。しかし僕と鈴木君には気質的にかなり似通った部分があり、だからこそ今までバンドを続けてこられたし、お互いに何をいわんとしているかが、多分誰よりも分かっている。表現方法は確かに違って見えはするが、それはお互いの外見が違って見える程度のことだ。すべての曲に、自分の努力と、鈴木君の愛情と、そしてその時々のドラマーの息吹が脈打っているのを感じずにはおれない。
 同じ瞬間に音を鳴らして空気を震動さして、奇跡的にそれが合致した時のあのダイナミクスは、ライブでしか出し得ないものだ。完璧でないところがあるにしても、今の時点でのパフォーマンスを残すことができたのは、まずもって大満足だ。

 発売日が近付くと、ぼちぼち取材が入ってくる。
 大槻ケンヂ君と対談をした。どっちも老けたねえという挨拶から入り、僕はすっかり涙脆く
なってしまった話などをした。
 明けてすぐ、地元の後輩のバンド、LOCAL SOUND STYLE の黒瀧君から連絡が来た。彼とは上
京してからの学校が同じだったり、彼のご実家で働いている方が僕の中学時代の知り合いだったりと、浅からぬ因縁を感じている。 LOCAL SOUND STYLE は、ジャンルでいったらJ-PUNK(エモ?)だ。一度渋谷の大きいライブハウスでのワンマンを見に行ったら、満場のお客さんで、しかもその中で堂々と津軽弁でMCをしていて、大変に感動した。感動のあまり僕も真似をして、時々津軽弁でMCをいうようになった。

 さて、この度オリコン・インディーズの携帯サイトでコーナーを持ったから、僕にゲストで出てくれないかというのであった。CDショップに行って、ゲストお薦めのCDを購入する企画とのこと。むろん二つ返事で承諾し、日程を合わせたら、どうした偶然か『疾風怒濤』の発売日と重なった。

 実は今まで、自分たちのCDの発売日近辺に、CDショップに足を運ぶことはまずなかった。それは新譜がどういう扱いを受けているのか、確認するのが怖かったからだ。(前作は見に行ったが)自分たちがビッグネームでないことは、十分に承知している。でもあえてそれをCDの現物という形で、直視する勇気が出なかった。

 発売日当日。彼らの事務所で簡単な打ち合わせをして、大手CDショップに向かう。これは彼らの企画だ。できるだけ私情を挟まないようにしたいものだが、気にしまい気にしまいとすればするほど『疾風怒濤』のことが脳裏に浮かんできて、心中は穏やかでない。
 「どうしましょうか、ロックコーナーだけにしますか」「いや、オールジャンル、すべてのフロアを回りましょう」一階のニューリリースコーナーをまず覗く。「ごめん、今日僕らの新譜の発売日でさ、ちょっと確認していいかな」「どうぞどうぞ!」

 『疾風怒濤』は、なかった。「あれー、置いてないな~」努めて明るく振舞おうとするものの、どうしても動揺の色が顔に出てしまう。ふと、今から十数年も前、制作会議の席でレコード会社の方が、十二月は大物の発売ラッシュだからなるべくなら避けたいですね、といっていたことを思い出した。同行しているお店の広報担当の方が、いかにも面目なさげに僕を見ている。「さあ、上行きましょう!」黒瀧君が、何事もなかったかのように促してくれた。
 うろたえていたのだろう、二階のJ-POPフロアでもなかなか見つけられなかったが、奥の方、試聴コーナーにきれいに陳列されてあった。一同、安堵の表情を浮かべている。なんだかみんなを振り回してしまったようで、申し訳ない気がした。
 黒瀧君は、とっても気持ちのいい奴だった。サンプル盤はすでに事務所で渡してあるのに、わざわざ自腹で『疾風怒濤』を買ってくれたのだった。僕もとにかく取材中は一階の件を忘れることにし、建設的な時間を過ごすよう心掛けた。
 
 取材はとても楽しく、かつつつがなく終えることができた。成功を喜び、駅の前で散会した。このまま電車に乗ろうか──しかし僕はきびすを返し、CDショップに再び足は向かっているのだった。

 何をしようというのか。『疾風怒濤』がニューリリースコーナーにないのは、さっき見たばかりじゃないか。だが僕は、それでもひとり自分の目で、じっくりこの現実を認識しておきたかった。まるでそこにみすみす苦痛があると知っていながら、せっせと首に注射を打ってもらいにいった、あの感覚に似ているなと思いながら。──これは自虐的な行動なのだろうか。いや、違うだろう。首の注射が後の更なる苦痛を防ぐためのものだったように、これも何か前進を求めてだ。

 三周ほど一階のフロアを回った。分かりきったことだが、縦から見ても横から見ても斜めから見ても、『疾風怒濤』はない。男性アイドルのポップ看板の前で、若い女性二人が携帯で写真を撮っている。これ以上探してもさすがに無駄だと悟って、店を後にした。

 まず襲ってきたのは、不甲斐ないという感情だった。あれだけ情熱をもって制作にかかわってくれたみんなに、顔向けができない気がした。
 時期のせいにしたり誰かのせいにするのは簡単だ。でももう自分は分かっている、怒りは何物をも生み出さないし、思うようにならないのは、自分がやるだけのことをやらなかったから、思うようにならないと思い込んでいるだけのことなのだ。
 数年前から、自分はベストを尽くすことに決めたのではなかったか。確かにアルバム制作においては、僕は死力を尽くせるようになった。それは一切の評価を期待せず、心の声に耳を傾けて身を捧げることこそ、価値があることだと分かったからだ。十代の頃の閃き、大胆さが戻ってはこなくても、身を捧げることができたなら、それで本望だ。
 それなのに──僕は三十時間眠った時点で、ひとしきり終わったと、どこか安心してしまったのだ。あとは自分は部外者だとでもいうように。アルバム発売日まで、気を緩めるべきではなかった。

 アーティストはマネージメントのことに口を出すもんじゃないよ。二十数年前、芸能界からロック畑に流れてきた業界の人に、そういわれた。だが僕らはそれこそ大物ではないし、そうした立場にはとうからいない。自分はアーティストだからとどこか欠落した部分に蓋をして朽ちていくよりは──僕は少しずつでも、その穴を埋めるか、認めるかして生きていきたい。

 結果がすべてなのではない。むしろそこに至るまでにどれだけ尽力したかが、最も大事なことだ。
 やるだけのことをやって、それでもニューリリースコーナーに並んでいないのだったら、まだしも納得がいく。努力が反映されて、コーナーの片隅にでも置いてもらえたら、その時こそいうことはない。いずれにしろ僕がこんな敗残兵のような気分になっているのは、やれるべきことをやらなかったからであり、最後の最後までベストを尽くさない限り、勝利の果実は味わえないだろう。

 次回からは──そうだ、だからこそ次回も作ろう──アルバムの発売されるその日まで、けっして気は抜くまい。全力で──死ぬ気でだ、制作に取り組もう。
 そう固く心に誓って、ようやく僕は師走でごった返す駅の階段を上り始めたのだった。

※アルバム発売数日後のこと。某ショップのチャートのトップ10圏内に、一瞬ですが『疾風怒濤』が入ってました。よかった。

浪漫派宣言
和嶋慎治(人間椅子)

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