コラム
浪漫派宣言
和嶋慎治(人間椅子)
「人間椅子」のギター&ヴォーカルとしてデビュー以来、唯一無二の世界観を貫き、多くのアーティストに影響を与えてきた。そのサウンドの要となるのは、確かな技術に裏づけされた独創的なギタースタイル。2013年8月7日に、通算21枚目(含ベスト盤)のオリジナルアルバム『萬燈籠』をリリースした。

第十二回 禁煙生活


 前回のコラムにも書いたように、今年の正月から僕は禁煙を始めた。その後も煙草には手を出しておらず、今や禁煙六ヶ月目に入らんとしている。と書くと、まるでここまでの道のりが楽勝のように聞こえるが、どうして相当に辛い日々であった。やはりアルコールと同じように、煙草もれっきとした麻薬なんだなと痛感する次第である。

 煙草をやめる気もない人、やめたい人、煙たいと思って嫌悪している人、何の興味もない人、いろいろいるだろう。僕は喫煙している人に、煙草は絶対に止めた方がいい、などといいたいわけではない。なぜなら、それは非常な苦しさを強いるから。ただ、煙草を吸っていない人には、おめでとう、今後もその生活を!とはいいたい。
 最も苦しかった最初の三ヶ月ほどの間、僕の励みになったのは、ネットなどで見かける同じ禁煙者の体験談であった。これから禁煙しようという人もいるだろうし、禁煙している人もいるかもしれない。禁煙歴半年とはどんなものか、何らかの参考になれば幸いだ、僕のこれまでの経緯を少しく述べてみたいと思う。

 喫煙のきっかけ。これは僕の世代ぐらいまでは皆そうだろうが、「周りが吸っていたから」である。未成年であっても何らかの集まりがあるとまず大概が吸っていて、つき合いでどうしても「じゃあ一本」となる。僕もかなりの間抵抗していたものだが、高校卒業の頃にはやっぱり口から煙を吐いていた。高校三年の現代国語の教科書に、寺山修二の『マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや』という短歌が載っていて、うん、これは煙草吸わねば解んねべ、と悪友とほくそ笑んでいたものだ。
 以来順調に喫煙生活は続き、酒を飲まない日があっても煙草を吸わない日はない、基本的に勤め人ではないし、人生のほとんどをバンド活動──人様には申し訳ないぐらいの気ままな稼業──に費やしてきた。レコーディングともなると灰皿が山盛り、どんどん本数が増える。
 一日に何箱吸うの、と人に聞かれ、‥‥うん、二箱‥‥と遠慮がちに答えていたものだが、本当は三箱以上吸っていた。(怪人、夢野久作は、日にバットを十箱吸っていたという。そりゃ頓死するよ、だ)

 そして今年の正月。坐禅会から帰ってきて、突然の禁煙決意。理由は幾つかあって、
・手持ち無沙汰や習慣で煙草を吸っているんだったら、そのこと自体に意味はない。なぜなら本来手持ち無沙汰という状態はないだろうし、習慣とはそもそも創造的行為ではない。
・健康上の理由。以前よりも咳き込みがちになった。すぐ息切れもする。
・曲がりなりにもアーティストとしての心構え。煙草を止めれば、もう少しうまく歌えるのではないか。本番直前、緊張の余り手先が冷えてくるが、これも少しは改善されるのではないか。
・喫煙所を探すのがだんだん面倒になってきた。外出して気がつくと、煙草を吸うことばかり考えている自分がいる(ニコチンの奴隷状態)。ようよう探し当てて一服し、辺りを見渡せば、皆ゾンビのようにどんよりと眼を濁らせて煙草を咥えている。まるで阿片窟だ、そしてそんな狭い所に押し込められてまでも喫煙している自分が情けない。
 とまあ挙げ出すときりがないが、日頃ぼんやりと考えていたことがようやく決心にまで至ったのであるから、とにかく禁煙を始めてみることに。

 初日。驚いた。頭が痺れたようになって、まったく煙草のことしか考えられない。吸いたい吸いたい吸いたい‥‥そのうち意識が朦朧としてきて、失神する。何事にも集中できず、本を開いてもただ眺めているだけだ。喫煙への渇望と失神を、一日のうちに何度か繰り返す。
 二日目もほぼ同じ状態。ああ、煙草が吸いたい‥‥失神。一言でいって、廃人だ。何もできないし、簡単なメールすら打てない。後日やや正気が戻ってきてから、禁煙の体験談を貪るように読んだが、ニコチンが体から抜けるまでの数日間はやはりそうなるものらしい。皆さん休日からの禁煙を勧めている。僕にとっては、特に予定のない正月からの禁煙でよかった。

 数日経つと、突発的に失神することはなくなったが、なんだか一日中眠い。相変わらず集中力も出ない。とにかく口寂しいので、お茶をがぶ飲みしたり飴を舐めたり、常に口の中に何かを入れている。コーヒーは猛烈に喫煙欲求が出そうなので、怖くてまだ飲めない。外出時は、煙草という存在を避けるがごとく、喫煙所があれば迂回する。

 一週間から十日ほど経った頃だろうか、顔を洗っていて、肌に張りが戻っていることに気がついた。手を見ても、以前は骨皮筋衛門というか老人というか、生気のない手の甲をしていたのだったが、ほんのりと赤みが差している。そういえばこの頃は飯が美味くなってきた。尾籠な話だが、屁も大変に臭い。どうやら血行が良くなって、舌の味蕾が復活し出し、腸も本来の働きを取り戻しつつあるようだった。体調が変化することにより、ここにきてようやく禁煙の自覚が出だした。
 とはいえ、吸いたい欲求は日に何度も襲ってくる。特に起床後と食後の辛いこと。朝から晩まで飴を舐め、それだけでは飽きるのでポリポリ梅をかじり、昆布をしゃぶり、ガムを噛み、ミンティアでスーハーし‥‥しかしあの喫煙時の陶酔感はまったくやって来ない。

 意外だったのは、酒と煙草のセット問題。だいたいの皆さんが、禁煙当初、酒を飲むと無性に煙草が吸いたくなって困った、と書かれている。僕はそうでもなくて、とにかく俄然食い物が美味くなってきたわけであるから、酒なんて世の中にこんな芳醇な飲み物があったのかというくらいで、煙草を吸いたい気持ちになる前に、もう一杯、となるのであった。お陰で連日のように酒を飲んでしまう。

 飯が美味くなったといっても、飛躍的に食べる量が増えたわけではない。酒量も、ある時期から落ち着いた。煙草を吸っていた頃は、日に四~五本は甘ったるい缶コーヒーを飲んでいたから(禁煙後はまったく飲まなくなった)、カロリー的にもそんなに増えたわけではないだろう。しかし、みるみる体重が増えていった。体感的には、口から取り入れたものがみんな栄養になって、それを体の隅々にまで血液が運んでいっている感じだ。逆をいったら、喫煙は相当に栄養の効率が悪いということだ。体重の増加は、だいたい禁煙三ヵ月目くらいまで続いた。

 ──なんだかんだいって、最初の一ヶ月くらいは、禁煙という新鮮な体験に気が張り詰めていたのだろう。なかなか集中力は戻って来なかったが、人に会う度に「煙草止めたんですよ!」といっては、相手をびっくりさせるのが楽しかった。それが、禁煙後一ヶ月ほどしてのことだ、思わぬ伏兵(というよりも本命)がやって来た。

 目が覚めても、布団から起き上がれない。何にもしたくない。やることがあった気もするが、さっぱりやる気が出ない。誰にも会いたくないし、誰の顔も見たくない。自分の人生にはこれから先、ちっともいいことがない気がする。いや、今までだってそんなにいいことはなかったじゃないか──。
 まったくの憂鬱である。生きる意欲が湧いて来ない。圧倒的な虚無感に起きてるだけでも辛くって、ひたすら寝てしまう。そうして、寝ても寝ても眠い。かと思うと得体の知れない不安にジリジリとさいなまれ、今度はさっぱり眠れない。連日、部屋に引きこもる。傍から見たら、立派な怠け者だ。たまに用事を足すために這うように街に出掛けると、運動不足なものだから今度はギックリ腰になってしまい、本当に這う生活を強いられる。この時期、都合三週間ほどは寝たきりで過ごす。当たり前だが、仕事は一つもやれない。どんどん雑用だけが溜まっていく。禁煙の決意もぐらつきがちになり、こんなに気分が落ち込んでやる気が出なくって、煙草を止めてかえって体調は悪くなったんじゃないか、などと思う。
 症状でいったらけっこうな鬱で、心療内科に行こうかとも思ったが、その前にネットで調べてみると「禁煙鬱」という状態があることを知る。

 なんでも安心感などをつかさどるセロトニンとかいう神経伝達物質があり、その不足が鬱を招くのだという。さて、煙草を吸うと気持ちが落ち着くわけだが、それはニコチンの摂取により脳内でセロトニンが分泌されるからだそうだ。やがてこれが常習化することにより、煙草を吸わない限りセロトニンが分泌されなくなってしまう。そうして禁煙──セロトニン不足──結果鬱状態──となるらしい。
 とまれそういう症状があると分かっただけでも、気持ちは楽になった。あともうしばらくの辛抱だ、もう少ししたら、この憂鬱から解放されるだろう‥‥。

 何より自分にとって幸いしたのは、月に何度か、人前で演奏するスケジュールが入っていたことだ。昨日の今日では体調の変化を感じるのは微妙すぎて難しいが、時折非日常的空間であるステージに立つことによって、禁煙の効果を実感することができた。

 まず、すこぶる声が出る。予想以上というか、そもそも僕がまともにバンド活動を始めたのは喫煙を覚えた後のことであるから、ほとんど未知の領域である。そのぐらい驚いた。えっ、声ってこんなに出るのか、そうか、歌はもともとこうやって歌うものだったのか、という感じである。この際、音程がどうだとか、ただ声が大きくなっただけだろうとかいう意見はナシにして‥‥つまり本来その人が持っている力量にようやく近付いたというか。
 そして、息切れも減り、手足の末端の冷えも改善された。禁煙後ひと月ほどは何故か握力が入らなくて困ったが、以降は通常に戻っていった。

 やはり僕は何かを表現して生きていきたいし、禁煙の一番の励みになったのも、パフォーマンスが向上したと自分なりに体感できたからである。それこそいまだに煙草を吸いたい衝動に駆られる時があるが、その度に、次のステージがあるから、今度のライブまでは我慢しよう、そう言い聞かせて禁煙を続けてくることができた。ここで吸ってしまっては元の木阿弥になる気がするし、あの禁煙当座の苦しみを味わうのは、一回でいい。

 ここからは、やや駆け足で述べる。

 鬱な気持ちは、禁煙三ヶ月目あたりから少しづつ減っていった。今でもうっすら残っているが、もともと自分はそんな人間だったような気もする。

 口寂しさに飴やガムに頼る生活は、だいたい四ヶ月目くらいまで続いた。途中からはガム一辺倒になり、人工甘味料たっぷりのガムをボトルで買って、日がなボリボリやっていた。注意書きに「食べすぎはお腹がゆるくなることがあります」とあるごとく、三日にいっぺんは猛烈な下痢をしていたものだが、さすがに体が拒否反応を覚えたらしく、ある日見ただけで気持ちが悪くなって、以後ぱったりとガムは齧らなくなった。つられるように口寂しいという状態もほとんど収まり、今では普通の砂糖入りの飴をたまに舐めるか舐めないか程度。

 禁煙してわりとすぐに、煙草の臭いをくさいと感じるようになる。今まで自分はあんな臭いを周囲に撒き散らしていたのかと思うと、びっくりする。しばらくの間は、大変にくさいし、にもかかわらずひょっとするとまた吸ってしまうかもしれないとの心配から、喫煙者を避け、また煙を嫌悪する。禁煙者転じて嫌煙者になる人もけっこういるらしいが、自分が昨日まで吸っていたことを思えば、なかなか否定できるものではない。僕の場合は、まあ隣で煙草を吸われても普通に会話はできる。けれどもやっぱり、くさい。

 日常の暮らしの中にも、ふと、ああ俺は煙草を止めたんだなあと思う瞬間が表れ出す。例えば、横断歩道の信号が青から赤に変わり、さっと駆け出すと馬鹿に体が軽い。何だか愉快になって、しばらく意味もなく走ってみたりする(四ヶ月目~)。
 封筒にチラシを入れるなどの単調な作業をしている際、以前だったら三十分に一回は一服しないと持たなかったものが、ほとんど休憩を取らずに黙々と作業を続けている自分がいる(三ヶ月目~)。

 おそらく三~四ヶ月目あたりがひとつの節目なのだろう。体重の増加もその頃には頭打ちになった。と同時に、せっかく煙草を止めたんだからと、以前より妙に健康に気を遣うようになった。自分としては様々の健康法を試したりサプリメントに頼ったりというのでなしに、質素な食生活で健康になれないかと思った。
 広島と長崎に原爆が落ちた後、玄米食をした人々が放射能症に遭わずにすんだという話を知り、僕も玄米食にすることにした。一汁一菜である。今のところ不都合は感じないし、体重も徐々に元に戻った。欧米型の栄養学でいったら栄養失調なのかもしれないが、しかし動物性タンパク中心の生活が、成人病の温床になっている気もする。

 話を元に戻す。分かりやすく、これまでの禁煙生活の中での、良かったこと、困ったことを以下に列挙してみたい。(ここまで触れなかったことも含む)

◎禁煙して良かったこと
・血行が良くなる。
・ご飯が美味しくなる。
・喉の調子が良くなる。
・体が軽くなる。
・息切れがしない。
・煙草代、缶コーヒー代がかからなくなるため、お金が減らなくなる(誰しもまず最初にこれを実感するはず)。
・外出時、喫煙所を探す煩わしさから解放される。
・そんなに休憩を取らなくてもよくなる。
・部屋がヤニで汚れない。

◎禁煙して困ったこと
・暴力的な眠気に襲われる。
・集中力が出ない。ダルい。
・太る。
・厭世感、焦燥感、憂鬱な気持ちにさいなまれる。
(これらが丸三ヶ月ほど続く)
・鼻が敏感になったのか、花粉症になった。
・歯磨き時、歯ぐきからの出血が増えた。
・煙草を吸う者同士の連帯感といったものが薄れる。
・慢性的な憂鬱、喪失感。

 最後に書いた喪失感、これが一番の曲者だろう。何といっても長年苦楽を共にした相棒が突然いなくなってしまったわけであるから、ちょっとした日常の一コマ、ご飯を食べた後だとか、お風呂上がりに夜風に当たっている時なんかに、ふっと例えようのない寂しさに襲われる。いったいこの心にぽっかり穴の開いた感じ、何かを失ったような感じはなんなんだ、ああそうか、前はこうした場面では煙草を吸っていたんだった‥‥。
 おそらく、今煙草を吸っても頭がグラグラしてきっと不味いだけだろう。半年近く禁煙すると猛烈な喫煙欲求というのは最早ないし、基本的には煙草のことを忘れて暮らしている。他人の吸っているところに出くわしても、くさいなあと感じるだけで、羨ましいとか煙草が欲しいとは思わない。ただ、自分の中の喪失感に気がついた時に、ああもう一回吸ってみたいな‥‥と、どこか憧憬に似た感情が呼び覚まされる。この感覚はずっと残るものと思われ、禁煙して一~二年でまた喫煙に戻る人はけっこういるし、先日禁煙して十年という方とお話しする機会があったが、その方は今でも煙草が吸いたくなるといっていた。
 そのことからいっても、煙草は精神的依存度の高い、しかも合法的に手軽に手に入るかなり厄介な薬物だ。だから、喫煙経験者は非喫煙者にはけっしてなれないし、どこまでいっても「禁煙」なのだ。

 だいぶん長くなったが、禁煙六ヶ月目における、まとめ。

 僕は禁煙外来にもいかずニコチンパッチも使わず、自力で禁煙したわけだが、最初のふた月ほどはそれは辛かった(個人的には何にも手につかないし、禁酒より苦しかった)。したがって、皆々禁煙しろとはいわない。体に不調を覚え出し、それを改善しようと思った人からするべきだろう。突然止めても、場合によっては生活に支障をきたす恐れがあるし(車の運転中に失神した人も)、ことに鬱の気がある人は十分な配慮が必要だ、ニコチンパッチ等での、緩やかな禁煙方法をお勧めします。

 煙草を止めたからといって、何かの病気が治るわけではない。ただその人本来の健康状態に戻るだけだ。四十歳なら四十歳の、五十歳なら五十歳の。それでも止めた人は、若返った!健康になった!と感じるだろう。そのぐらい違う。何かが物足りない気もするが、そもそも人を錯覚させる麻薬を断ったわけであるから、むべなるかなと諦めることだ。

 僕はこのまま煙草を止められるだろうか。分からない。死の足音が近づいてもいいと思った時に、また吸ってしまうかもしれない。

浪漫派宣言
和嶋慎治(人間椅子)

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