コラム
浪漫派宣言
和嶋慎治(人間椅子)
「人間椅子」のギター&ヴォーカルとしてデビュー以来、唯一無二の世界観を貫き、多くのアーティストに影響を与えてきた。そのサウンドの要となるのは、確かな技術に裏づけされた独創的なギタースタイル。2013年8月7日に、通算21枚目(含ベスト盤)のオリジナルアルバム『萬燈籠』をリリースした。

第十一回 面壁かろうじて二年と少し


 昨年の暮れのこと。大家さんに家賃を納めにいったところが、「あなた、このお正月はご実家に帰られるの?」「いえ、正月はお寺に坐禅をしに行くつもりです」「んまあ!坐禅って体にいいんですってねえ」といわれ、うーん、そういうことではないんだけどなあ、と思った。
 昨年はまた、学校卒業以来ずっとお会いしていない方、昔お世話になったものの疎遠になってしまった方、もう今生は会うこともないだろうと忘れかけていた方々などから、突然に連絡が来たり、再会するといったことが続いたのだった。
 そんなうちの、中学時代の同窓生の女性から、先日あるメールが来た。「和嶋君はお正月はどうしてました?」「正月は、お寺で坐禅をしてました」「和嶋君は世捨て人みたいになってしまうの?」──いや、そういうことでもないんだけど・・・・。

 学生時代のひと頃、僕は坐禅に親しんでいたのだった。
 僕が在籍していたのは、仏教系の大学だった。入ってすぐに、なんだかキャンパスには軽薄な空気が漂っているし、自分で選んだとはいえ、学部にはいかにも偏差値の低さを物語る事例があふれていて、正直失望を覚えた。それでも退学しなかったのは、やめたところで何をやればいいのかが皆目分からなかったからだ。
 自分は変わり者なのかもしれなかったが、高校時代の学友のように、これこれこういうものになりたいという将来の展望を持てなかった。よしんばそれが出来て実行に移せたのは少数だったとしても、大多数の学友たちがしたように、細かいことは上の学校に行ってから考えよう、よりよい就職のために、よりよい生活のために──そう考えることができなかった。家庭を持って月給取りになっている自分というのを、まったく想像することができなかった。陳腐な、青臭い、まるで世間知らずなもの言いには違いないが、こうあるべきだろうというレールに乗っかって一生を終えるのが自分には耐えられなかったし、そんなことのために自分は生まれてきたのではない気がした。受験勉強をしたくない、結局のところその言い訳に過ぎなかったかもしれないが。
 さて自分は、付和雷同のような人生に疑問と拒絶を覚えだしたわけだが、かといって反社会的人間や犯罪者になりたいわけでもない。この煩悶を解いてくれる鍵が、哲学や宗教にある気がした。就職にはまったく不向きである学部と知りながら、だからのん気といえばのん気だったし、逆に切羽詰っていたのかもしれない、僕は宗教の学校に入ったのだった。

 失望という状態は、過剰な期待をした結果だということが今では分かる。期待しなければ、失望も起こらない。求めているのだったら、向こうが与えてくれるのを待ったりせずに、自分から渦中に飛び込み、思うように行動していくほかはない。(この、自分の精神に則って行動するというのが存外に難しいが)物事はなるようにしかならない。そうしてどうあれ必ず物事はなり、なったかと思った刹那次の状態に移行していくのであり、だからそのことに成功とか失敗とか小賢しく判断をしたところで、無意味だろう。
 とにかくせっかく宗教の学校に入ったんだからと、実践できるもの、つまり禅を僕はやってみることにした。二年の終わり頃だったか、参禅部の門を叩いた。

 がむしゃらに坐っていたように思う。活動をサボった記憶はほとんどない。放課後になると仲間たち数人と連れ立って坐禅堂に行き、坐った。軽薄なキャンパスの空気とは裏腹に、坐禅堂の中はいつもひっそりと静まり返っていたものだ。
 特に気の合ったのは、M君とF君だった。M君はミラレパ(チベットの聖者)を崇拝していて、恐ろしく真面目でまたエキセントリックなところもあり、野外で行なってこそ本物の禅定ではという彼の提案のもと、坐禅堂が使えない時などは近くの公園まで赴き、木立の下坐禅を組んだ。ともすると日はすっかり落ち、星空に包まれて僕たちは何時までも坐っているのだった。その後で部室に帰り、切り干し大根にご飯だけといった貧しい食事を取り‥‥それは確かに、得難い青春のひと時だった。
 そうしてF君は、坐ることに抜群のセンスを持っていた。センスという意味合い、分かってもらえるだろうか。もちろん最初から結跏趺坐(両足を互い違いに組む坐り方)をできる人なんてまず稀なのだが、例えば鈴木大拙が‥‥道元禅師が‥‥と薀蓄をいくら垂れたところで、いざ坐るとなるといつまで経っても落ち着きのない人がいる。F君は坐禅という器にピタッとはまっている感じで、誰もが彼に一目置いていた。なぜこの学校に、というくらい知的センスも抜群で、ノートに公案のようなものを書き留めたり、ウィトゲンシュタインの注解めいたものを書いたりしていた。(僕たちの学んでいたのは曹洞禅で、公案とは臨済宗の言葉だが、F君の書く文は公案としかいいようのないものだった)

 春・夏の休みには泊りがけで、お寺に坐禅をしにいった。いわゆる接心と呼ばれるものだ。いつしか僕もどうにかこうにか結跏趺坐を持続できるようになっていたものだが、その接心中の際にも、F君は一人抜きん出ていたように記憶している。ほかに思い出といえば、‥‥いや、そもそも早朝から夜まで何日もただひたすら坐っていたのであるから、思い出なんて持ちようがない。強いて挙げれば、接心中に湧いてきた雑念の幾つかを、今でも覚えているのが不思議だ。それは現実に起こったことではなく、ただ僕のその時々の想念の一つに過ぎなかったのに。

 F君は鋭敏すぎたのかもしれない。彼の語る言葉は公案のように示唆に富んでいたが、また公案のように難解で意味のつかめない場合があった。魔境(禅定中に幻覚などが見えること)の危険性は重々承知していたはずだが、彼のいうには、夜更けになると寝室にしばしば聖人が訪れてくるようになった、時には魂が抜け出し、世界中に旅行もしている──。僕はこれっぽっちも笑えなかった。僕自身他人にいえない神秘体験の持ち合わせが幾つかあったし、そもそも我々は明晰さから遠く離れた無明のただ中にいるのではなかったか。
 F君は本格的に精神に変調をきたし出し、やがて学校にも来なくなった。

 いい遅れたが、僕は本来「仏教青年会(仏青)」というサークルに所属していたのだった。ただし新入生として僕が入った時点ですでに活動が停滞しており、さらにその後の僕の営業下手も相まって気がつくとほぼ廃部寸前、慌てて先輩のつてやら知り合いやらの名前を借りて、辛くも部の体裁を保っている有様であった。そんな有名無実の部であるから、方針もへったくれもない。参禅部の門を叩いたのは、仏教系サークルのあり方を教わりたいという思惑もあってのことなのだった。
 しかしやっぱりというか、四年生の半ばを過ぎても一向に新入部員の入ってくる気配はない。大学の事務局に熱心な仏青OBがいて、その方がなにくれとなく便宜を図ってくれる。部だけは潰さないでくれといわれる(その方は今では退職なさって、横浜の大きなお寺の住職さんです)。当然ながらOBには偉いお坊さんが大勢いて、廃部のことを考えただけで冷汗がどっと出てくる。本気で留年もギリギリまで考えたが、サークルを理由に留年するのはまるでかつての過激派のようだし、果たしてその学費はどうするのか。親に出してくれとはもう言えないし、自分にすぐさま調達できる才覚があるとも思えない。
 参禅部に近づいたのは別にこの計画あってのことではなかったのだが、とにかく一学年下だったM君に頼み込み、ごっそり参禅部から名前を借りて、役職はかぶらないように工作を施し、ほとんど次期仏青をでっちあげるような形で、僕は卒業したのだった。

 気持ちよく卒業したかといわれれば、どうにも後味が悪い。廃部の事態だけは免れたものの、いったい僕の学生生活とは何だったのだろうか。
 四年生になってから頑張って、正法眼蔵のゼミを取ったり自主的な勉強会に参加したりもしてみたが、あれもこれもとかえって消化不良を起こしたようで、結局チンプンカンプンなまま卒業してしまった。
 出家する気持ちには一度もなれなかった。かといって、就職する気にもなれない。
 あれだけ仏教の基本の考えとして、人生とは生まれてから死ぬまで苦しみの連続である、それを生み出しているのは我執、我見、煩悩であり、そこを解脱しない限り真の安心は得られない、としつこいぐらいに教わったにもかかわらず、さあこれから現代の資本主義社会に出て、その煩悩を刺激してやまないお金のために働きましょうでは、大いなる矛盾を感じてしまうのだった。(もちろん学部には在家の方もたくさんおられ、皆さん矛盾を感じつつも社会人になっていったはずだ)
 僕としては、学校に行くことによって、より現代社会への不適応性が強まった気がする。
 そして二年間の坐禅で、何度か魔境を垣間見た。

 幸運なことに、まさにこれが幸運だろう、僕は友人とチャンスに恵まれて、卒業してすぐに、芸術家のはしくれのようなものに携わることができたのだった。追い追い、作品には仏教の教えを取り入れた。何度か放り出してしまいたくなる時もあったけれど、しかしほかに僕に何ができるというのだ。宗教とアートが不可分とはよくいうけれど、このこと以外に自分が情熱を傾けられるものなんてないだろう。

 縁あって、昨年の終わり頃からまた坐禅をし出した。二十数年ぶりだ。
 やや緊張の面持ちで坐禅会に向かう。こじんまりとした集まりだったが、そこの禅マスター──瞑想センターじみた言い方ですみません。それこそ禅マスターは、坐禅と瞑想は違うといっていた。しかし21世紀の今再び坐禅をするということは、自分にとってはとても新鮮な体験で、こっそりそう呼んでみたくなった──が、「六根の働きに任せなさい。雑念が出てきても追いかけないで、放っときなさい」と簡単に助言をしてくださった。ハッとした。そうか、小難しく考えたり自分を規定したりしないで、ただあり様のままにまず坐ればいいんだ‥‥二十数年ぶりの坐禅は、一炷(イッチュウ──四十分くらい)がやけに短く感じられるほど、すんなり入ることができた。

 ここでようやく冒頭の話に戻るが、今年の正月は、あるお寺での接心に何日か参加したのだった。
 学生の時以来の接心は、食事の作法は忘れているし、朝のお勤めの正座は痛いし、二日目になるともう半跏趺坐ですら激痛が走るしで、ああこれはやっぱり精神と肉体の我慢大会‥‥などと凡庸な感想が頭をもたげてくるのだったが、しかし元旦の朝のお勤めが終わった後に見たお日さまの素晴らしさ、また何日目かの夜のお勤めの折、読経の足りない音域を必ず誰かがカバーしていき最後には絶妙なハーモニーになっていったあの感動、そしてそこに自分の声も加わっているのだという有り難さ、こうした敬虔な気持ちは普段の生活でまず味わえるものではないだろう。
 坐る度に足はとんでもなく痛くなっていったが、とにかく、想念は捕まえない、判断もしない──そうすると、次から次に際限もなく湧いてくる映像や考えが、まるで一瞬の泡か夢のように浮かんではすぐ消えていくのだった。

 坐禅から帰ってきて、ひとまずさっぱりした。そうして妙な表現だが、何て人生はエキサイティングなんだろうと思った。そうだ、僕の身の回りで決まってしまったことなんて実は一つもなくて、学生時代のあの頃も、今も、僕はまったくの途上にいるのだ。

 早朝に目が覚め、立て続けに煙草を二本ほど吸い、考えた。『今こうして自分は習慣から煙草をくわえているが、一気に吸ったものだから朝から気持ちが悪くなっている。果たしてこんな思いまでして煙草を吸う必要があるのだろうか。間が持たない、手持ち無沙汰だ、理由をつけて自分は喫煙するが、それは間が持たないと思い込んでいるだけのことであって、そもそも手持ち無沙汰という状態すらないだろう。ありのままの場面場面を受け入れればいいだけのことだ。よし、煙草をやめてみよう』
 これは、素晴らしいアイディアに思われた。喫煙暦二十数年にして禁煙未経験、煙草を吸わない生活など想像すらできなかったが、しかしいつもステージの最後の方では息切れがするし、ここ数ヶ月ほどは変な咳が止まらなくなってもいる、禁煙するにはいい機会だろう。誰に禁煙を強いられたわけでもなし、自分の好きにするさ、我慢できなかったらまた吸えばいい。

 禅は健康のためにするわけでも、精神修養のためにするのでもないと僕は思っているが、しかし正月に坐らなかったら煙草もやめていなかったであろうから、大家さんのいうように、坐禅が体にいいといえなくもない。
 中学の同窓生は、僕に世捨て人みたいになるの?といった。むしろ僕としては、世界をありありと、生き生きと捉えたいがために、再び坐禅をしたつもりである。

 ──このところ都合がつかず、ほとんど坐れないままでいる。部屋で坐ればいいものの、なかなかそれができないのが僕のいい加減なところだ。
 禁煙は、そろそろ三ヶ月目に差し掛かった。

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和嶋慎治(人間椅子)

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