コラム
中国ロックと中国社会
ファンキー末吉
1985年爆風スランプでデビュー後、日本の音楽シーンに大きな影響を与えるドラマーとして君臨。1990年からは中国での音楽活動もスタート。 ドラマー以外にも、ソングライティングやアレンジ・プロデュースを多く手掛け、その多大な功績により数々の賞を受賞。現在も頻繁に日中を行き来し、音楽的な掛け橋として唯一無二の存在となっている。

第3次 天安門事件と一无所有


◆天安門事件と一无所有

天安門事件は民主化を求めて立ち上がった学生達を中国政府が武力で鎮圧したと言う解釈をされているが、いろんな方向で物を見ると必ずしもその一面だけの事件とも言い難い。

別の方向で見ると、妥協点を放棄して最後まで居座った学生達を非難する声も聞こえて来たりもする。政治的思想もなく面白半分で参加している学生もいただろう。その学生達は、その時広場で彼らが愛唱していた一无所有と言う曲を反体制のメッセージソングとして歌っていたわけでもなく、また「俺達は何も所有してない」と言うメッセージを、必ずしも反共産党の意味合いとして歌っていたとも限らない。

しかし日本も含めた西側諸国のメディアは、こぞって崔健を「反体制の旗手」として報道した。一无所有はそれにより見事なまでに「自由を求める若者を代表するメッセージソング」にされてしまったのだ。

「ロックはメッセージ」と言うが、私はそれもロックのただの一面であると思っている。歌詞と言うものはその性格上多面性があり、聞き手にいろんなイメージを湧き起こさせるように作るものである。この歌詞に出てくる「何も所有してない男」が中国人民を表していて、その男に求愛されて「だってあなたは何も持ってないじゃない」とそれを相手にしない女は中国政府を表していると言うのは、とどのつまりにはその詞を「そのように解釈した」と言う聞き手の問題であり、果たして作者がどのような意図があってそれを作ったかと言うことは作者にしかわからないことだし、またそれを知ることは音楽を聴くと言うことに対して何の意味も持たない。

確かに彼の曲には西側諸国のメディアが喜びそうなメッセージが見え隠れする。
例えば一(イー)块(クアイ)红(ホン)布(ブー)と言う曲では

女が男に赤い布で目隠しをする。
「何が見える?」と聞かれて男は「幸福が見える」と答える。
とても気持ちがよく、自分がどこにいるのかもわからない。
女は尋ねる。「どこに行きたい?」。
男は答える。「あなたの行くところに」。
女は尋ねる。「何を考えてる?」。
男は答える。「あなたが主で私は従だ」と。
ここは荒野ではないと男は感じる。
例えそれが既に干からびてしまってても、自分にはそれを見ることが出来ないから。
男は渇きを覚える。女はその口を優しくふさぐ。
僕はもう歩けない。僕はもう涙も出ない。身体はすっかり干からびてしまったから。
でも僕はずーっとあなたに着いてゆく。だって一番苦しいのはあなた自身なのだから・・・。

この曲を演奏する時、彼はステージの上で真っ赤な目隠しをしてトランペットを吹く。赤とは共産党の色である。中国政府が彼を徹底的に弾圧するようになるのに時間はかからなかった。政府はロックと言うものを精神汚染音楽だと捉え、全てのロックミュージシャンはその演奏の場を失ってしまった。

~つづく~