コラム
中国ロックと中国社会
ファンキー末吉
1985年爆風スランプでデビュー後、日本の音楽シーンに大きな影響を与えるドラマーとして君臨。1990年からは中国での音楽活動もスタート。 ドラマー以外にも、ソングライティングやアレンジ・プロデュースを多く手掛け、その多大な功績により数々の賞を受賞。現在も頻繁に日中を行き来し、音楽的な掛け橋として唯一無二の存在となっている。

第6次 中国ロックの商業化


◆中国ロックの商業化

改革開放の旗頭として挙げられた鄧小平の先富論とは、「豊かになれる者から豊かになれ。そして落伍者を助けよ」と言うもので、これにより中国は資本主義市場経済を導入した中国独特の社会主義を歩むこととなる。「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」とは彼の好んで使った「白猫黒猫論」と言う言葉である。

その反面、中国政府は常にロックを「精神汚染音楽」として敵対視して来た。これは社会主義がイデオロギーを最優先することと、資本主義市場経済が経済を最優先することとの大きな矛盾である。「鼠を捕るロック猫は良い猫なのか悪い猫なのか」と言う命題を中国政府は試行錯誤しながら解決してゆかねばならなくなる。

台湾のロックレコードと契約していた黑豹唐朝は、94年には日本のJVCビクターと契約を交わすこととなるが、このような動きはロックビジネスが多額の外貨を稼ぐビジネスであることを中国政府に見せつけた。

1992年頃から再び改革開放が推し進められ、社会主義市場経済が既に確立している。中国政府もその「鼠を捕る猫」をいつまでも敵対視するわけにはいかなくなった。時にはロックをしめつけ、ある時は緩め、そその揺り返しの中から中国政府とロックとの関係は落ち着くところに落ち着いて行ったのである。

中国政府が初めてロックと手を結んだのは、1993年4月24、25日に北京首都体育館で開かれた黑豹のコンサートであると私は考えている。老齢年金にその売り上げを寄付すると言う条件で開かれたこのコンサートでは、それまでコンサートで立ち上がったら逮捕されると言う状況だったのが一変し、1万人を超す観客が総立ちで彼らの曲を合唱した。

ロックに対する規制が緩和されて来たかのような時代ではあったが、それでも中国ロックの創始者である崔健に対する政府の締め付けは相変わらず厳しかった。演奏許可を出さない、Partyライブの中止命令から始まって、このようなエピソードまである。

1994年にオープンしたハードロックカフェ北京のこけら落としイベントで、BBキングが北京にやって来てライブを行ったが、そのライブを見に来た崔健を当局は入店させなかった。ここまで来ると「締め付け」ではなく、もう「イジメ」の域である。彼の存在は「音楽」を超えて「信仰」の域まで達しており、また頑なにその独自の姿勢を崩さない彼の態度に中国政府は常に面白くないものを感じていたのではないかと思われる。

それに反して他のロックバンド達は崔健が進むいばらの道を横目で見ながら商業主義に突っ走って行った。ロックと言う言葉は使わない、自分たちは政治とは関係ない、などそれこそ「上(シャン)有(ヨウ)政(ジョン)策(ツァー)下(シャー)有(ヨウ)对(ドゥイ)策(ツァー)(上に政策あれば下に対策あり)」のあらゆる対策を使いながら彼らはロックをビジネスにしてゆき、その商業的な成功を見てロックを始める次の世代の若者たち、そしてその若者たちを商売に使おうとするレコード会社など、ここにロックビジネスの根本的な条件は整った。

~つづく~