コラム
中国ロックと中国社会
ファンキー末吉
1985年爆風スランプでデビュー後、日本の音楽シーンに大きな影響を与えるドラマーとして君臨。1990年からは中国での音楽活動もスタート。 ドラマー以外にも、ソングライティングやアレンジ・プロデュースを多く手掛け、その多大な功績により数々の賞を受賞。現在も頻繁に日中を行き来し、音楽的な掛け橋として唯一無二の存在となっている。

第5次 中国ロックと毛沢東/西側諸国の中国ロックへの理解度


◆中国ロックと毛沢東

文化大革命で中国を大混乱に陥れた張本人として、または中国と言う大国を支配した独裁者としてその功績を悪く評価する人間は西側諸国には少なくない。また「ロック=反体制」と言うならば、共産党体制の代名詞のような毛沢東とロックとは対立してしかるべきだと思うのが自然であるが、こと中国のロッカー達にとって毛沢東と言うのは必ずしもそのような簡単な考えで片付けられるものではない。

崔健は「新(シン)长(チャン)征(ジョン)路(ルー)上(シャン)的(ダ)摇(ヤオ)滚(グン)(新しい長征の道のりのロック)」と言う曲を作り、1989年に同名のファーストアルバムをリリースしている。毛沢東の長征をロックになぞらえたこの曲は、「毛沢東を茶化している」と中国政府の逆鱗に触れたが、果たして崔健は中国政府が言うように本当に毛沢東を茶化してこの曲を作ったのであろうか。

歴史の評価と言うものは必ずしも一面だけが全てではない。毛沢東は文化大革命と言う歴史的な大失策をやらかした張本人であることは事実だが、中国を開放した英雄であることも大きな事実である。崔健が毛沢東を敬愛し、その長征の道のりを自分のこれから行おうとするロックに道のりと同じものだと考え、同名のツアータイトルをつけて毛沢東と同じように全中国をツアーしたと考えても不思議ではない。


◆西側諸国の中国ロックへの理解度

私と中国ロッカー達の決して少なくない交流の中で感じることは、西側社会がイメージする「ロック=反体制」、「ロックvs共産党」と言うような簡単な図式で彼らの考えを推し量ることは出来ないと言うことである。

彼らは中国に住んでいる。日本人のように容易に外国に出ることも出来ない。また日本人のように安易に「アメリカは正しい」と信じ込むことも出来ない。

また、天安門事件は彼らの国のことであって、外国人がそれに安易に介入出来る事柄ではない。私たちが想像しているよりも彼らはもっとこの事件を深く、そして同時にある意味では軽く考えている。それは日本の安保闘争で熱く戦った戦士たちが今では体制側で仕事をしているのとも似ている。

彼らはここで暮らし、ここの音楽を作り、そしてここで生きてゆく。彼らの「この時代の音楽」は彼ら自身が作り上げてゆくもので、決して外国人が押し付けたり煽ったり出来るものでもない。中国のロックを本当に理解しようとするならば、体制や文化の違う国で暮らしながらその物差しで物を測ったりしてはいけない。彼らと一緒に暮らしてみなければ永遠に見ることが出来ないものがそこにあるのである。

~つづく~