コラム
中国ロックと中国社会
ファンキー末吉
1985年爆風スランプでデビュー後、日本の音楽シーンに大きな影響を与えるドラマーとして君臨。1990年からは中国での音楽活動もスタート。 ドラマー以外にも、ソングライティングやアレンジ・プロデュースを多く手掛け、その多大な功績により数々の賞を受賞。現在も頻繁に日中を行き来し、音楽的な掛け橋として唯一無二の存在となっている。

第4次 中国ロックの黎明期/音楽の役割の変化


◆中国ロックの黎明期

この頃には既にいくつかのロックバンドが生まれていた。スラッシュメタルバンドの(チャオ)(ザイ)やプログレッシブメタルの(タン)(チャオ)、女性バンドの(イエン)(ジン)(シャー)、そして後にこの時代のバンドとしては商業的に一番成功することになる(ヘイ)(バオ)などであるが、彼らの主な活動場所はPartyと呼ばれるアンダーグラウンドでのロックライブであった。

全ての公演施設は国の持ち物であるし、正規の演奏には文化部の許可が必要なのであるから、彼らの活動は決して楽なものではなかった。しかしテレサテンの場合と同じように、この広い中国大陸に住む十億以上の人間の耳と口を塞ぐことはいくら一党独裁の共産党でも不可能なことである。

ロックは一大ムーブメントとなり、彼らのカセットテープは海賊版も含め(と言うよりそのほとんどは海賊版なのだが)何百万本、何千万本、ひょっとしたらその数は億をゆうに超えたであろう。

中でも台湾のレコード会社、ロックレコードが製作、販売した黑豹のファーストアルバムは、正規版だけで150万枚の売り上げを記録しており、ロックアルバムとしてのその記録はその後も破られてはいない。

ロックと言う音楽はメッセージやムーブメントだけでなく「金を稼げる商品」として中国政府の認識を変えていった。


◆音楽の役割の変化

文化大革命の頃は音楽と言うものはひとつの「娯楽」ではなく、革命を前進させてゆくひとつの手段であった。戦時中、日本の音楽が戦意を高揚させるために軍部に利用されたのと似ている。

文化大革命は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しようという運動」と言われているが、その実は国民全てを巻き込んだ権力闘争であった。結果毛沢東の個人崇拝が徹底し、人民たちは毛沢東の写真やその文字を軽々しく扱っただけで命を落とすことも珍しくなかった。

この時代、革命を前進させる音楽とは即ち毛沢東を讃える歌と言うことである。「太(タイ)阳(ヤン)最(ズイ)红(ホン)毛(マオ)主(ジュー)席(シー)最(ズイ)亲(チン)(太陽は最も赤く毛主席は最も親しい)」、「毛(マオ)主(ジュー)席(シー)的(ダ)话(ホア)儿(アル)记(ジー)心(シン)上(シャン)(毛主席のお話は心に記され)」などがこの時代の音楽の種類としては一番代表的なものであった。

それでも音楽には「娯楽」の一面は必ずあるわけだから、国民達はこれらの革命歌を愛唱した。いわゆる時代を反映するヒット曲と言えるであろう。国民とはその国がどんなであろうが、それがどんな時代であろうがいつも音楽に心の安らぎを求めるものである。

ところがそんな時代が終わり、改革開放がますます推し進められてゆく1991年、「红(ホン)太(タイ)阳(ヤン)(赤い太陽)」と言う、革命歌をロック的なリズムでメドレーにしたカセットテープが発売さた。これは爆発的なヒットとなり、正規版だけで600万本を超え、翌年にはその続編も発売されている。

初めて電気楽器を使うバンドとして登場した「(ブー)(ダオ)(ウォン)(ユエ)(ドゥイ)」のメンバーであり、後に「(イー)(ジョウ)(バー)(ジョウ)」と言うロックバンドのメンバーにもなった(スン)(グオ)(チン)が数曲歌っていることも興味深い事実であるし、何よりも文化大革命の時代には人民が軽々しく扱うことが出来なかった毛沢東と言う「神様」を、この時代には自由に商売として扱うことが出来るようになったと言うことが実に大きな変化であると言えよう。

毛沢東ブームは一大ムーブメントとなった。毛沢東のブロマイドが街角で売られ、交通安全のお守りになると言うことでタクシーや乗用車のルームミラーにそれを吊下げて車を運転することが全中国で大流行した。文化大革命の頃なら死罪ものの行為である。

~つづく~