コラム
中国ロックと中国社会
ファンキー末吉
1985年爆風スランプでデビュー後、日本の音楽シーンに大きな影響を与えるドラマーとして君臨。1990年からは中国での音楽活動もスタート。 ドラマー以外にも、ソングライティングやアレンジ・プロデュースを多く手掛け、その多大な功績により数々の賞を受賞。現在も頻繁に日中を行き来し、音楽的な掛け橋として唯一無二の存在となっている。

第2次 ロックとテレサテン/西北風ムーブメント


◆ロックとテレサテン

日本やアメリカではロックが長い歴史の中で徐々に発展していったが、中国では経済開放政策のおかげでロックもジャズもテレサテンもいっぺんに同時に入って来た。テレサテンなどは中国ロックに最も大きな影響を与えた歌手であるとも言えよう。後にロックミュージシャン達が集まって彼女の追悼アルバムを作ったりもしている。

ロックとテレサテンと言うふたつのまるで異なる音楽は、中国と言う特殊な環境の中で奇しくも似たような運命をたどってゆくこととなる。

1983年ごろ鄧小平は、経済開放政策の副産物として外からとめどもなく入って来る政府に悪影響のあるものを取り締まるべく「精神汚染批判キャンペーン」を始め、テレサテンの音楽は「靡(ミー)靡(ミー)之(ジー)音(イン)」と呼ばれ、人民を退廃させる「ブルジョア的な思想や風俗に傾斜する退廃的な音楽」としてそのやり玉に挙がったのである。

テレサテンのテープを持っているだけで所属している单(ダン)位(ウェイ)から給料を減らされたり、財産を没収されたりしてたと言うほど厳しい取り締まりであったと言うが、中国政府が期待しているほどその成果は上がらなかった。当時中国大陸で2億個とも言われるほど出回っていた彼女のカセットテープを根絶やしにすることは到底不可能で、「上(シャン)有(ヨウ)政(ジョン)策(ツァー)下(シャー)有(ヨウ)对(ドゥイ)策(ツァー)(上に政策あれば下に対策あり)」と言う言葉が示すように、人民は隠れて彼女の歌を聞き、口ずさみ、愛し続けた。


◆西北風ムーブメント

その数年後に生まれた中国ロックも後にこのような運命をたどるのであるが、その時点では中国政府はロックを「危険なもの」と言う意識を持っていない。崔健も「ちょっと変わったスタイルの音楽をやる流行歌手」と言った立場で、1987年頃から始まった「西(シー)北(ベイ)风(フォン)」と呼ばれる中国西北部、黄土高原地帯の民謡を現代風にアレンジしたスタイルの大流行に乗り、一无所有と言う曲もその代表曲のひとつとして中国全土に大流行してゆく。

その大流行は1989年まで続き、その流れに乗って崔健は1988年1月、北京中山音楽堂で初めてのソロコンサートを開き、同年ソウルオリンピック前夜祭特別番組の世界中継のテレビの中で、一无所有を歌う。翌年2月、ファーストアルバムとなる「新(シン)长(チャンg)征(ジョン)路(ルー)上(シャン)的(ダ)摇(ヤオ)滚(グン)」を発売し、3月には北京展覧館で“ソロコンサートを開き、これが中国で初めての大舞台でのソロロックコンサートとなる。

大流行となった西北风ムーブメントも中国流行歌の全てがそのようなスタイルになってしまい飽きられて終わってゆくのだが、そうして消えて行った多数の西北风スタイルの楽曲に反して、一无所有だけが違った運命を歩んでゆくことになる。その大きな原因となったのが1989年6月に起こった天安門事件である。

~つづく~