コラム
中国ロックと中国社会
ファンキー末吉
1985年爆風スランプでデビュー後、日本の音楽シーンに大きな影響を与えるドラマーとして君臨。1990年からは中国での音楽活動もスタート。 ドラマー以外にも、ソングライティングやアレンジ・プロデュースを多く手掛け、その多大な功績により数々の賞を受賞。現在も頻繁に日中を行き来し、音楽的な掛け橋として唯一無二の存在となっている。

第7次 中国ロックの衰退/中国ロックの細分化と更なる商業化/「零点」の商業的な大成功


◆中国ロックの衰退

1995年5月11日、中国ロック界を揺り動かす重大な事件が起こった。唐朝のベーシストである张(ジャン)炬(ジュィー)がバイク事故で死亡したのである。彼が運転していたバイクと事故を起こしたトラックの運転手の名前を政府は最後まで公開しなかったと言う。全国のロックファンがその運転手に危害を加えるのを防ぐためだと言う話であるが、テレビなどのメディアで露出することが出来ないロックと言うムーブメントの影響がここまで大きくなっていると言うエピソードのひとつである。

この事件をきっかけとしてコアなロックファンの中国ロック離れが始まった。既に1994年に設立された青(チン)山(シャン)音(イン)乐(ユエ)工(ゴン)作(ズオ)室(シー)と言う会社に代表されるように、いろんなレコード会社は質の悪いロックのオムニバスアルバムを量産していたし、黑豹は初代ボーカリストの窦(ドウ)唯(ウェイ)が脱退し、新ボーカリストを迎えて過去のヒット曲を歌って全国を営業に廻ると言う状態。そして人気実力共にトップクラスであった唐朝が、ムードメーカーとしてバンドの結束を固めていた张炬の死によってバラバラになってしまうに至っては、コアなロックファンにとっては何を持って「ロック」と考えればいいのかがわからなくなってしまうのも無理はない。

これはアメリカのロックがウッドストックをピークとして商業化しながら確実にその潜在的パワーを失っていったのとも似ている。日本で言うと、安保闘争の学生運動をピークに衰退していったフォークブームと似ている。中国ロックは天安門事件をピークとして、その歴史を10年足らずで駆け抜けてしまったのである。

◆中国ロックの細分化と更なる商業化

この頃には中国は既に「閉ざされた国」ではなくなっている。インターネットと言う発明が、中国人民に世界中の最新の情報を提供するからである。中国の若者は常に世界で一番流行っている一番新しい音楽を聞き、まるでオールドファッションの服を脱ぎ棄てて新しい服を着るように、パンク、グランジ、デジタルミュージック等さまざまなジャンルのバンドを結成するようになる。それまでハードロック一辺倒だった中国ロックが「世界の流行」と同じようにジャンルが細分化されて来たのである。

「ロック魂」ではなく「ファッション」を前面に押し出したバンドも現れて来て、その中でも清(チン)醒(シン)乐(ユエ)队(ドゥイ)はそれまでなかったブリティッシュスタイルのロックとファッション性を前面に押し出し、商業的にも成功した。彼らは自らデザイン会社やレコード会社を設立し、新しいバンドの育成やレコード発売を積極的に行ってゆくが、そのこと自体はアンダーグランドのロックの底上げに大きく貢献してゆくことなのではあるが、猫も杓子もデビューできる風潮はロックの「質の低下」につながり、その後のロックシーンの低迷を招く大きな要因ともなる。

◆「零(リン)点(ディエン)」の商業的な大成功

黑豹唐朝などの大成功を見て内モンゴル自治区から北京に出て来た零点のメンバーは、流行歌手のバックバンドや酒場での演奏活動で生活費を稼ぎながら創作活動を開始する。折しも若いロックバンドの青田刈りが始まっていた頃なので、最悪の条件ながら彼らがレコードを発売することはそう難しいことではなかった。

1995年にはデビューアルバム「别(ビエ)误(ウー)会(ホエ)」、そして1997年に発売したセカンドアルバム「永(ヨン)恒(ハン)的(ダ)起(チー)点(ディエン)」爆発的なセールスを記録した。

シングルと言う概念がない中国において爆発的なセールスと言うのはアルバムセールスと言うことなのではあるが、日本のオリコンのようにそれを数字にしてチャートにすることは難しい。海賊版だらけのこの国で正規版のセールスをチャートにしたとしたら、海賊版業者も手を出さないレコードの方がチャートの上位に上がってしまう可能性もあるし、海賊版を含めた総合セールスなど正式な数字を調べることなど不可能である。

中国におけるヒットチャートと言うのは、そのほとんどがラジオでのオンエアーのチャートである。彼らのセカンドアルバムのリーディングソングである「爱(アイ)不(プ)爱(アイ)我(ウォー)」と言う曲は50のラジオ曲のトップ1に輝き、全ての国民に愛される「歌謡曲」として大ヒットしたのである。彼らは積極的にテレビの歌番組やバラエティー番組に出演した。そのことによって彼らの知名度はますます上がってゆき、地方の歌謡イベントなどでの彼らの出演ギャランティーは一流歌手と同じランクになっていった。

「ロックで金を稼ぐ」と言うことはここ中国では非常に難しい。その演奏の場がほとんどないからである。しかしこの国では「歌手」が一番金を稼ぐ。よくてカラオケ、悪くて口パク、つまりCDに合わせて5分間観客に笑って手を振っているだけで日本円で数百万の金がその歌手の懐に落ちるのである。多い歌手でそんなイベント出演を年間100本以上こなす。

黑豹に憧れて北京に上京して来た零点は、黑豹のロックの上っ面だけを世襲し、その音楽と活動を徹底的にポップにしてゆき、結果そこまでやり切れなかった黑豹をメインストリームから追放することとなった。中国ロックの終焉である。

イベントの主催者としては、バンドの人数が5人だからと言って出演ギャランティーを5倍支払ったりはしない。バンドは歌手と同じギャラをメンバーの数で割るので収入は歌手の5分の一と言うことになるが、それでも彼らはそんな営業ライブを年間100以上こなし、巨万の富を得た。営業ライブと言ってもそのほとんど、いや全てはオムニバスの歌謡イベントに出演すると言うもので、バンドであろうが全て当てぶりか口パクである。つまりボーカリスト以外はそのバンド生活の中で生演奏する機会はないのである。

これを「ロック」と呼べるかどうか議論の余地はないと思う。零点はロック界、そしてロックを心から愛するリスナー達に大いに軽蔑され、その代償として巨万の富を築いた。

~つづく~