コラム
中国ロックと中国社会
ファンキー末吉
1985年爆風スランプでデビュー後、日本の音楽シーンに大きな影響を与えるドラマーとして君臨。1990年からは中国での音楽活動もスタート。 ドラマー以外にも、ソングライティングやアレンジ・プロデュースを多く手掛け、その多大な功績により数々の賞を受賞。現在も頻繁に日中を行き来し、音楽的な掛け橋として唯一無二の存在となっている。

第1次 中国ロックの誕生


◆中国ロックの誕生

長い暗黒の時代であった文化大革命が1976年に終わりを告げ、1978年に鄧小平が「四つの近代化」を掲げ、中国の体制を市場経済へと移行していったために、中国社会にはこれまで聞くことが出来なかった多くの外国の文化が流れ込んでくることとなった。それまでの中国の音楽は毛沢東を讃える歌に代表されるような革命を推進する音楽しかなかったが、その外国から流れ込んでくる文化の中にビートルズに代表されるような西洋のロックミュージックがあったことが、後に中国にロックが生まれる大きな土壌を作ることとなる。

1986年5月9日に中国ロックの歴史が始まったと言われている。北京工人体育館で連合国国際平和年を記念して第(ディー)一(イー)届(ジエ)百(バイ)名(ミン)歌(ガー)星(シン)演(イエン)唱(チャン)会(ホエ)(第一回100人歌手コンサート)と言うイベントが開かれ、そこに(ツイ)(ジエン)と言う歌手が参加した。壊れたギターを抱え、ジーンズの両足の長さが揃っていないような小汚い格好で舞台に上がったひとりの若者に、観客は最初は何事かと思っていたが、彼が歌うオリジナル曲「一(イー)无(ウー)所(スオ)有(ヨウ)(何も所有していない)」を聞いた瞬間に、その新しいリズム、歌詞、アプローチ、今までの中国にはなかったまるで新しい音楽に大きな感動を覚えた。中国ロック誕生の瞬間である。

崔健は1961年に朝鮮族の両親の間に生まれた。父親はトランペット奏者、母親は朝鮮族舞踏団と言う音楽一家である。この時代のロックミュージシャンのほとんどが音楽関係に従事する家庭の子供であると言うのは、実は文化大革命の影響も少なからずあるであろう。自分自身が音楽でこの文化大革命の嵐を乗り切って来た両親が、子供の将来のために音楽を教えると言うのも当然の流れであろうからである。

例にもれず、彼も父親からトランペットを教わり、1978年頃から北京交響楽団のトランペット奏者として仕事を始め、1981年には北京歌舞団のトランペット奏者となる。鄧小平が推し進める経済開放政策の真っただ中である。文化大革命の頃にはあり得なかった海外からの留学生や旅行者との自由な交流の中で、彼らが持ち込んだカセットテープで初めて洋楽を聞いた彼は、それからギターを弾き始め、歌を歌い始めた。そのような若者は中国でもたくさんいた。

1979年に萬(ワン)马(マー)力(リー)王(ワン)乐(ユエ)队(ドゥイ)と言うバンドが北京第二外国語学院の学生達により結成され、ビートルズや、ビージーズポール・サイモンなどのコピーバンドとして活動を始めたのが北京最初のバンドだと言われている。

また、1980年10月22,23日には天津の天津第一工人文化宮で開催された“第一回中日友好音楽祭”にゴダイゴが出演、これが名実ともに中国で初めて行われたロックコンサートであり、このことが中国ロックに与えた影響も大きいと言える。

翌年8月にはアリスが北京の北京工人体育館で日中共同コンサート“ハンド・イン・ハンド北京”を開き、このことも中国ロックには大きな影響を与えており、1984年に結成された初めて電気楽器を使うバンド「不(ブー)倒(ダオ)翁(ウォン)乐(ユエ)队(ドゥイ)」は、アリス谷村新司など日本の歌のカバーが中心だった。後にこの「不(ブー)倒(ダオ)翁(ウォン)乐(ユエ)队(ドゥイ)」のメンバーは中国ロックをけん引してゆく大きな存在になってゆく。

また北京に在住している外国人が中国ロックに与えた影響は大きい。1983年末に結成された外国人バンド大(ダー)陆(ルー)乐(ユエ)队(ドゥイ)のメンバーなどは、後に崔健と共に活動し、その音楽を一緒に形作ってゆくこととなる。

その当時はまだオリジナルのロックはまだ存在せず、中国に中国人による中国語の初めてのオリジナルを生みだした人間こそが崔健であり、そして彼が突出していた能力はその制作能力の高さであった。ロック、ジャズ、ファンク、ラップ、いろんな洋楽の要素に彼は中国民族音楽の要素を入れてその独自のスタイルを築いている。その音楽性は海外でも評価が高い。それは中国にロックが入って来た時の特殊な環境にも由来していると考えられる。

~つづく~