おとぼけ2
ファーストアルバムが完成したのは20歳の2月だったろうか、トラックダウンなどというやけに難しい作業につきあわされていた。結局大学は全部だめだったかな、というより半分は受けなかった。あまりの学力のなさに自分でめげていたのか、予備校も途中で放棄してしまった。これだったら現役で受かった大学に行っとけばよかった、あぁ要領悪い。
「私は風」のコーラスをとるのが手間どって、それがアルバム最後のTAKEだったのだと思う、他は全部完成していた。コーラスなんぞ誰もやったことなかった。レッドツェッペリンもディープパープルも聞いていたのに誰もコーラスなんてあったかな?ってなくらい意識低かった。
CHARが、「これからのバンドは16ビートとコーラスできなきゃだめよ!」と言う。「へー何それ?」って、昨日までグランドファンクレイルロード聞いて盛り上がっていたのに、どうすんだ?トラピーズって知っている?グレンヒューズがいたバンドとか、なんとかシスターズっていう4人組姉ちゃんの「ソウルピーナッツ」っていう曲だったかな、とか聞かせてもらったり、とにかくロックでコーラスのソウルフルなバンドを聞かせてもらったりしているうちにコーラスの録音がびびってどんどん遅れてしまったのであった。
結局その頃スタジオミュージッシャンという代物がよくわからなくて、なるべく自分達でやらねばという意識が強かったせいか、ずーっとカルメンマキ(以下マキ)と春日博文(以下春日)は挑戦していたのかな。しまいには、サビの部分はオイラが作ったので、ダディ竹千代もやれということになったのでコーラスもやらされた。が、うー高い、できない。声変わりの青年にはとてもできない。女性歌手のバックコーラスって、とても普通の男にはできんわ。仕方ないから我が高校の軽音学部の先輩部長のキー坊キン太(後のおとぼけCatsのギター)をよんで、高いパートをやってもらったのだが、出番間近にスタジオの控え室で、長島茂雄の引退セレモニーをTVでやっていたのをよく覚えている。あぁー見たいのに。
かくしてそれも夜中までかかったのだろうか。くたくたではありました。「はーい終わり」って朝になって喫茶店のモーニングサービスをうけながら、何とうまい朝食。トーストがこんなにうまいとは思わなかった。思えばこんなに長いこと根つめた作業いままでの人生でなかったワ。ものすごい満足感。
「これで終わりですか?」って聞いたら「ううん、まだトラックダウンとかジャケット撮影とかまだだね」って。はぁ?何ですかートラックダウンって?「それにシングルカットするような曲がない」」はぁ?シングルカットって何ですか〜?マキ&OZの曲は長いのでトラックダウンは大変だった。
シングルは急遽「午前1時のスケッチ」が短いと言うので、あわてて録った。曲はオイラの曲で、たまにライブでやっていたのかな、その頃は他のメンバーが大学受験だ高校受験(なに〜!)とかで忙しかったので、ベースに鳴瀬喜博(以下鳴瀬)さん、ドラムに西哲也(現原宿クロコダイル店長)さん、キーボードは深町純さんにお願いして、1日で作ったのではなかろうか。知っているミュージッシャンの全てかな、だったら早く呼べばよかったのに。何はともあればたばたと最後に「午前1時のスケッチ」を録ったのではなかろうか。
オイラと春日は20歳になっていた。なんかいいね〜、出せると思わなかった、アルバム。まわりのバンドは「グループサウンズ」からのおじさんバンドばっかりだったんで若手No.1だと思っていた。よーし、いけるかも、って思っていたら「20歳の原点」というアルバムが出ている。ふ〜ん4人囃子か。聞けばメンバーも20歳ではないの。早速見に行った。というより、ライブが一緒になることが多くなった。
一触即発か、あらま。「”私は風”くらい長いね、レコーディングどうやってとったの?」「うん?パートごとにつなぎあわせて・・・・・・」、「なるほど、つなぎあわせるのか」オイラ達はすぐ仲良しになった。後日山下達郎さんと飲むことも多くなったけど、まだ彼もぺえぺえの頃だす。コーラスのスタジオ仕事とかやっていた、ポケットに帰りのバス代ぐらいしか入ってない頃。「先輩、コーラスって大変だね」「そんな長いのは、一人で重ねて貼り付けていけばいいのだよ」「え、貼り付ける?・・・・・」すぐにスタジオに見学に行った。みんな独自というか向こうのレコーディングをよく勉強していたのだろう。オイラは新聞部あがりで、なーにも知らなかった。そう、新聞部だった。オイラは軽音楽部ではない、はてな?どっからこうなったのだろう。
そうこうするうち、発売の日が近づいてきたのであった。気がつけばメンバーがぐしゃぐしゃになっていた。春日とマキを残してみんな辞めていった。ありゃどうすんだよ!もーこれでは「発売記念コンサート」できないではないか。かくしていつのまにか作詞作曲家としてオイラはデビューするということにあいなってしまった。コード譜も読めないくらいなのに、メロディー譜面を書いて下さいという。あぁーあ、こんなんでいいのかな〜。「大丈夫です、うちの『キティレコード』には譜面かけるシンガーいませんから」ん?そうかよかった。恥をかかずにすんだな。世の中には「譜面屋」などいう職業があるのも初めて知った。スタジオミュージッシャンを呼んでくれる「インペグ屋」という便利な職業があることも知った。
そうかこりゃ便利な音楽業界、オイラ達は馬鹿みたいにライブと練習に明け暮れていたので、ちっとも知らなかったワ。みーんな、レコーディングが終わってから教えてもらった。いやいいのだけど、バンドが命だったので全部自分達でやるものだと思っていた。ラジオでシングル曲がかかるようになったが、なかなかレコードは売れなかった。ずーとジリジリと演歌のような売れ方だった。でもそれがバンドの正しい売れ方だったかもしれない。少しずつ地方の仕事も入ってくるようになった、20歳の夏でありやした。全然先が見えないな〜。マキはまったく平気だ、女は強い。何しろウーマンリブ(古い!)の権化みたいな人でした。