コラム
新橋より愛を込めて〜新サブカルの勧め
ダディ竹千代
超絶テクによるコミックロックを炸裂していた「ダディ竹千代&東京おとぼけCATS」のリーダー。 解散後は裏方ワークをこなし、現在はライヴハウス「新橋ZZ」を経営。旧世代から新世代まで、ロック継承の活動をおこなっている。

おとぼけ5


レコーディングは快調だった。レコーディングはグランドファンクレイルロードのツアーミキサーにやってもらったんだが日本語が駄目なせいもあったんだろう、なかなか馴染めない青年だった。

そのうちどこからともなく、タートルズというバンドのベースのエリックという人間がなつくようになって、いつのまにかスタジオに毎日来るようになりそのうちディレクティングやるようになった。なんといういい加減な、全てが何とかなるというロサンゼルス調だった。

タートルズってわかるいかいな〜、フランクザッパ&マザースエディ&フロウという太ったおじさん2人組がつくったバンドだ。ヒット曲が確か「Happy Together」 だったかな。マザースで多分一番ポップな曲だった。その時はわからなかったんだ、いつのまにエリックが来たんだっけ?

川上シゲユキもたいしたものだ英語わからないけどベースで語ってたような気がする。楽器は人を仲良くさせるというのを初めて知った。後から思ったんだがなんだな、グランドファンクレイルードフランクザッパは仲よかったんだな。フランクザッパってグランドファンクレイルードのプロデュースやっているのね、その頃にオイラ達は丁度ロサンゼルスにいたんだろう。

きっとその馴染めないミキサーがメンバーに泣きついたんだろう、日本からおかしな連中が来ている、理解不能なロックをやっていると。そこで気のいいエリック青年が様子見にきてくれたんだろう。今思えばそんな筋書きだ、あの時は全然わからなんだ。なんせ子供じゃ。スタジオにはひょいとロッドスチュワートがやって来たこともある。

こっちが珍しい存在だったのか、当時のロサンゼルスがミュージッシャンの街で当たり前の事だったのか。ん〜、よくわからんが、なんせ黄色人種がロックバンドをやっているのは相当奇異の目でみられたんだろ。まぁちょっと前に我々が韓国語や中国語のロックバンドに変な違和感を感じたのと同じだ。そのくらい妙な音楽に聞こえたんだろうな。おまけにマキちゃんは外人の顔だし、ハーフっていう人がまずあんまりいなかったしね。

こりゃ見るも聞くも初めてだったんではなかろうか、あっちにしてみれば。そんな中で2枚目「閉ざされた町」ができあがっていった。エリックが言う、どうして大サビが2回でてくるの?なんと、そういえば閉ざされた町はおかしな構成だな。リフと別の曲みたいなサビが2回繰り返しだAメロとかBメロというのがないや。あれ、なんでやろ?思わずこれが日本人の感覚だわ!と言ってしまった。

なんという無謀な。そうか、いつのまにか日本人のマというか空間が無意識に出てきていたのに気づく。なるほど日本人にしかできない感覚、無の空間というものがあるのだな。何だかお茶の師匠さんが言ってるみたいだね。日本人には日本人しかできないロックがあるらしい。言葉でうまく言えないが、ワビ、サビの世界にも似た世界だ。エレキのサウンドに日本語をのせるとどうも独特なメロディになってしまうらしい。

それがいやなのかいいとかは置いといて、ハードロックに日本語がのるか乗らないかの重要なテーマを与えられた気がする。言っとくがハードロックね。歌謡ロックじゃないよ。しばらく日本には帰りたくなかったんだが、ツアーなるものが待っていた。俺は大学に戻ろうかなと思っていた。いろんな事がありすぎた。ブラブラするのはこの辺で終わりにしなきゃなぁ。

東京に帰ったのは半年くらいたってからかな。もうすぐ最初の日比谷野音ワンマンがせまっていた。フロントアクトを同じKittyレコードの先輩RCサクセションに頼んだかな。まだアコースティックで3人組の頃だ、名曲「スローバラード」はもう歌っていた。もうひとつがラビット関根。なんという素晴らしい組み合わせ!

春日博文はその後RCサクセションがよっぽど気にいったんだろう、よくセッションするようになり、なんと一時期メンバーにもなってしまった。それまで聞いた事はあったんだが見たのは初めてだったんではないだろうか、相当感動していた。何しろRCサクセションをエレキサウンドに持っていったのは彼だ、それからの大躍進は知っての通りだね。

オイラは2か月くらい受験勉強して大学に入った。何かやらなきゃいけない事ができたような気がして。あ〜それなのにできたのは、東京おとぼけCatsだった。なんと!(爆笑)オイラ達はアメリカから何を学んで帰ってきたんだろうか。何かが動きだしたのは事実だった。気がつけば22歳だった、遅れて来た青年に丁度ならんとしていた。何処に行くんだろう?オイラ達は語り合った、みんな同じだったかもしれない。

その頃が一番ミュージッシャンの友達ができた頃だった。みんな日本では売れそうもないROCKに夢中だった。オイラ達はロスで買った楽器を持ってバンドで旅にでた、ロックンロールの始まりだった。ロサンゼルスで覚えた単語 キープオントラッキン が合い言葉だった。それからマキ&OZの快進撃が始まった。

初めてPA会社も立ち上げた、自分達専用のPAセット。照明も専属の会社がついた。今の魔法陣という会社がそう。調子に乗ってマキ&OZの電飾もつくった。トラックも買った、それに全部つめ込んでツァーが始まった。お〜何処にいくんだろう?まだ高速道路が地方になかったぞ〜、いつも地図もって彷徨っていた。おーい、会場はどこだ?知らない町ばっかりだ、どこも閉ざされた町だった。旅の終わりは無いと思っていた。

時は流れ。ダディ竹千代は旅をして、新橋ZZにて店を開いた。ぜひ一回は遊びに来てください。http://www.zzpad.com/