連載

TEXT & PHOTO:鈴木亮介
第16回 Stand Up And Shout ~脱★無関心~

Photo東日本大震災から2年半。「ロックと生きる…ライフスタイル応援マガジン」というBEEASTのコンセプトに基づき、3.11震災等による現地の声や、被災地関連のロックイベントを紹介している当連載。今回は石巻に昨年10月オープンしたライブハウス「BLUE RESISTANCE」へ私鈴木が石巻へ赴き、黒澤英明店長へのインタビューを実施した。そのロングインタビューを前後篇2回に分けてお届けしたい。
 
前回(ACTION 15)は「BLUE RESISTANCE」オープンまでの経緯や地元・石巻のバンドシーンなどを中心に伺ったが、後篇となる今回は3.11のその日のことを掘り下げることで、黒澤店長の持つ情熱をお伝えしたい。また、黒澤店長の心の中にある、石巻の若いバンドマンに向けた偽らざる本音も伺うことができた。本記事を通じて、石巻をはじめとした被災地の展望を考える契機となればと思う。
 
※インタビュー前篇(ACTION 15)はこちら
http://www.beeast69.com/serial/mukanshin/82297
 

石巻BLUE RESISTANCE(ブルーレジスタンス)

全国からの賛同・支援で立てられた
 人と人を繋ぐ希望のライブハウス

ライブハウス石巻ブルーレジスタンスは、「東北ライブハウス大作戦」によるたくさんの方達のご支援・ご協力で2012年10月30日にオープンしました。宮古COUNTER ACTION、大船渡FREAKSと共に被災地の復興の足掛かりとして、「人と人とのつながり」を広げていきます。

店長・黒澤英明 プロフィール
宮城・石巻出身の42歳。
石巻で生まれ育ち、学生時代はバンドでベースを担当。
カフェ、スナック経営や養殖業などを経て現職。
5歳の娘、2歳の息子の父でもある。
 
 
 

―――黒澤さんご自身の目で見て石巻の経済、街の状態は2年たってどうですか?
 
黒澤:やっぱりお金を持っているところは復活が早いですよね。どうなんですかね…被災前から元々シャッター通りだし、変わったかというとあんまりそうは見えないですけどね。ただ、辞めた人は実際多いですね。また何かやりたい!ときっかけを探している人は多いと思いますが、その辺り現実的には難しいですね。やっぱりお金がないと厳しいところはあるので。
 
Photo―――3.11震災当日、黒澤さんはどちらにいらっしゃったのですか?
 
黒澤:震災の時は養殖業をしていましたから、3月11日の朝は海で迎えました。仕事が朝早いので午前4時前には海に出ていて、終わるのがお昼前。そこから1時間くらいで自宅に戻ります。同じ石巻なんですが半島なので峠を走る感じで…地震が来たのはちょうど家に帰ってすぐでした。私は2階で子供は1階で…たまたま子どもも一緒だったので、嫁も産休をとっていて自宅にいたので。
 
―――そうなんですね。お子さんはおいくつですか?
 
黒澤:現在2歳と5歳です。当時、下の子は生まれて3ヶ月でした。2010年の12月に生まれたので…下の子が生まれたばかりの赤ん坊だったので、大変でしたね。最初の1ヶ月間は食べ物がなくて…
 
―――差し支えなければ、その当時のことを詳しく教えてください。
 
黒澤:生活は…海の仕事は、全て津波で流れてしまいました。せっかく育てた魚がいきなりいなくなっちゃって…最初の3ヶ月近くは片付けだけですね。(養殖に使える)水もありませんでしたし。
 
―――電気や水道はどういう状況でしたか?
 
Photo黒澤:1ヶ月ほど、何もない状態だったと思います。最初テレビがついて音が流れた時は嬉しかったですね。電気が全然来なくて、ずっと停電していたので…。水は最後でしたね。配管の関係だと思いますけど。電気もこなくて。ろうそくでは生活していましたけど、食べ物も、どうなるのかなって…車もない状態。うちは車を5台持っていたのですが全部使えなくなってしまい、バイクも動かない。自転車があったんですけど瓦礫のあるところを走ると一瞬でパンクしちゃうんですよ。だから歩くしかない。で、どうしようってことで、電話がやっとつながったときに、福島に車屋さんの友達がいて、ぜひ使ってよってわざわざ運んでくれて、それでなんとか買い物にいけるようになりました。
 
―――ご自宅は大丈夫だったのですか?
 
黒澤:家は1階がだめですね。電気系は全部だめになって、片付けて…その期間って結構感覚的に長いんですよ。仕事がないし、子どもがいるので何とかしなきゃいけないし…
 
―――上の子も3歳、下の子に至っては3ヶ月という状況ですしね。
 
黒澤:大変でしたね。暖房がないので寒くて。お風呂に入れないのも大変でした。嫁は友達の家に子どもを連れてお風呂を貸してもらいに行って、俺は入らなくていいや、と。音楽を聴く余裕はなかったですね。
 
―――避難所には行きましたか?
 
黒澤:最初、一度避難したのですが何も物資が来ないので、結局家に帰ることにしました。学校に避難して、何日いてももらえるのはお菓子をちょっと、というだけで。炊き出しをしているところもあったようですが、なかなかいけない。うちは(自分の)親も同居しているので、6人分の食料の確保は大変でした。お店が再開して買いものに行っても、「一人何品まで」と決められているので、何を買ったらいいのかわからないですよね。カップラーメンでいいのかな、お湯は何でわかそうかな、子どもがいるからお菓子の方がいいのかなぁ…そんな感じでしたね。
 
Photo―――本当に「音楽を聴く余裕がない」という状況ですね。
 
黒澤:聴く余裕がないというか、実際に聴こえてこないですね。被災地なので宣伝も一切やっていないし、自発的に聴こうというのも、人によって状況は違うかもしれませんが被災してしまうとそこまで余裕がないですよね。だからこそ、聴いた時には、あぁ音楽っていいなぁって思いました。あったかいなぁって。
 
―――そう実感した時、すなわち被災以来初めて音楽を聴いたのって、いつ頃どこだったか覚えていますか?
 
黒澤:いつだったかは覚えてないですが、それは車の中だったと思います。ラジオからだったと思います。もちろんそれ以前にも各ラジオ局放送はしていましたし聴いていたのですが、ずっと被災の状況を伝えるだけだったので…。やっぱり音楽っていいなぁと思いましたね。
 
―――何の曲だったかは覚えていますか?
 
黒澤:いやぁ覚えていないですねぇ(笑)ハードロックとかではなかったですね。優しい曲だったと思います。
 
―――そうしたこともあってやはり音楽はいいなぁという思いが、「BLUE RESISTANCE」建設につながってくるわけですね。
 
Photo黒澤:そうですね。被災直後は自分も嫌になっていたというか、「もうどうでもいいや」という…どうでもいいんですけど、でも子どもがいるから「どうでもいい」なんて言ってられなくて。どうでもいいなんてガキじゃないんで…いやいつまでもガキなんですけど、子どもがいるおかげでがんばれるというか。子どもがいなかったら今頃自暴自棄になってパチンコ三昧の生活だったかもしれませんね。何かしないとと思って、実際がれきの片付けにアルバイトにいったりはしていましたが、がれき片付けながら「何しようかなー」と思って。
 
―――子どもたちを食わすために、まず働きながら次に何をするか考えよう、と。
 
黒澤:その後はなんか女川の方で新幹線を直している所があって、人が必要だという話を聞いて、行ってみたら昼夜働かされるようなハードな会社だった、というオチなんですが(笑)お金になるからいいよって言われたけれども「いやいやそういう問題じゃなくて」っていう(笑)女川では5階~6階まで建物が津波でダメになってるんですね。そのがれき処理というか、線路自体撤去になっちゃって。あたり一面何もないところで連日作業をしていると、「なんでこんなになるんだろう」というか、「どうしたらここは復活するんだろう」っていう思いになりましたね。
 
―――そうした光景を知っているからこそ、お祭りなどで町が活気を取り戻す瞬間の喜びはひとしおだと思います。
 
黒澤:そうですね。去年今年、女川でもお祭りなどをやっていますですが、それで少しでも町が明るくなれば。下の子達が企画したみたいですけど、すごいなぁと思って。ライブハウスの仕事もあるので協賛しただけで顔は出せませんでしたが、音楽でせっかく携わるようになった以上、これからも場所や年齢など関係なくそういう協力はしていけたらいなぁと思います。
 
Photo―――そう前向きになれる原動力は、やはり「子ども」だったり「若いバンドマン」だったりなのでしょうか。
 
黒澤:未来のため、じゃないですけど…結局子どものためにがんばっているというところはありますね。もちろん自分自身もないわけではないですが、その子たちがどういう大人になるか…って、これからじゃないですか。それを見届けられるというか、音楽好きな子達が集まってきて素敵なミュージシャンを観られる場所ができたらいいなぁ、最高だろうなぁという感覚はずっとありますね。実際来てもらったり、これからももっと来てもらえたらいいのですが。石巻に限らず女川の子達もいっぱい来てくれますし、全国からも応援してくださる方がいるので、それが少しでも増えて、今度はこちらから発信していけるような状況になればいいなと思います。やはりみんなに作ってもらったライブハウスなので。もっともっとがんばっていければなと思います。
 
―――改めて伺います。「BLUE RESISTANCE」を開店されて、本当に良かったなぁということを一つ挙げるとすると、どのようなことがありますか?
 
黒澤:ライブがある時だけかもしれませんが、町が賑わっている感じがして、すごく嬉しいです。それを見るだけでも、いいですね。元々石巻繁華街で飲食店などがいっぱいあったので、賑やかになればと思います。そして、人が集まれば何かが始まるのかなと思います。町がどうのというわけじゃないんですが、 なかなか、2年しかたってないとか2年もたったとかいろいろあるとはおもうんですけど、人の感覚だったり。それはあったことなんで、変わらないので、2年たとうが3年他党が多分同じ。ちょっと見た目が変わってくるというか。でも少しでも活気が、、、活気というか、人がいるのって、いいなぁって思います。被災した時はひとりだしまっくらだし、誰もいないし、くあーいかんじですけど、人が集まると笑い声だったりがきこえてくるといいなぁって思います。
 
Photo―――若い世代に向けたメッセージなどがあれば、お願いします。
 
黒澤:今年の夏、TEENS ROCK IN HITACHINAKAに「BLUE RESISTANCE」からも高校生バンドを1組推薦しました。こうした全国規模の大会に送りこんで競えるバンドが石巻からどんどん出てくれればなぁと思います。そのためには、色んなバンドを観ている必要があると思います。色んなライブに足を運んで吸収してほしいです。かっこいいバンドっていっぱいいるんだけどなぁ、って。本気でやりたいやつが出てこないかなぁと思っていて、それはすごく応援したいと思います。うまいへたではなく、「手伝うから練習させろ」みたいなやつが出てこないかなぁと…「出てこい!」みたいな(笑)
 
―――「BLUE RESISTANCE」で働きながらステージに出て…というバンドマンにも来てほしいですね。
 
黒澤:そうですね。来てほしいなぁ…北はシャイが多いのかなぁ。負けず嫌いというか、一番じゃなきゃいやだ!というバンドでないと続けられないと思うので。でも、東北ライブハウス大作戦によって完成した(大船渡、宮古含め)三店舗だけじゃなくて、音楽に携わっている人って、みんなあったかいですよね。私はこれまでの人生であんまりあったかい場所にいたことがないので、不思議な感覚です。

「BLUE RESISTANCE」の扉を開けてまず感じたのは、木の香りだ。壁一面に貼られた木札の発する心落ち着く香りと、そしてその温かい木目の色、力強さあふれる木札に書かれた名前たち。この木札からパワーをもらえる、支えてもらっている気がする、と黒澤店長は語っていた。さらに楽屋も見せて頂いたのだが、テーブルの長い木は震災後にどこからか流れついた大木を一枚板にして作ったのだという。
 
「東北の回るツアーをしてみたい」「仙台以外のライブハウスでも…」と考えているバンドマン・ミュージシャンの方々は、まずは気軽に黒澤店長に相談してみてほしい。きっと、良い人の縁、つながりが生まれ、絆となっていくだろう。転んでも転んでも立ち上がる、人間の力強さと、支え合う温かさ、優しさのあふれるこの空間。石巻復興、東北復興の原点として、いつまでも大切にしていきたい。
 

BLUE RESISTANCE
http://blueresistance.com/
〒986-0824 宮城県石巻市立町1-2-17
 
アクセス:
・三陸自動車道 石巻港IC・石巻河南IC・河北IC下車
・JR石巻線・仙石線 石巻駅から徒歩約10分
・仙台駅前高速バス乗場(さくらの百貨店前33番)から石巻行き臨時バスでJR石巻駅前下車

 
公演スケジュール:
http://blueresistance.com/schedule
 
出演希望者の問い合わせ先:
http://blueresistance.com/about/about_bosyu
宮城県石巻市立町1丁目2−17



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