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スタッフヴォイス

鈴木亮介 Vol.11

2010年02月25日

「都立入試と芭蕉とロック」

2月23日、都立高校入試が終わりました。
前日の壮行会、当日朝の早朝学習会(眠気覚ましと最後のひと勉強と勇気づけが目的)、そして戻ってきた生徒たちの自己採点等々…気付けば40時間以上塾にいて、あまり実感がありませんでしたが、一日経った今、こうして原稿を書いていると、「終わった」という実感が沸々と湧いてくるのです。

今年は本当にわが子のように愛着を持って育て上げた子達の受験だったので、多分これからじわじわと寂しさがこみ上げてくるのだと思います。そして、ほんの少し引きずりつつ、桜の咲くころにはまた気持ちを切り替えて次の年の生徒へ全力を注いでいくのだと思います。

さて今年の都立入試の国語では、芭蕉と去来の問答をテーマにした古典・現代融合文が出題されました。(都教委のHPに問題が掲載されています

話を要約すると…
不易流行を追究する芭蕉は、故人の作品と同様に自分の作品が後世になってその筋道を見破られてしまうことを恐れていた。つまり、簡単に「こうだ」と断定できない所に俳諧の可能性があり、言い尽くしてしまったら散文と同じなのだ。その点を弟子の去来や其角が理解しておらず、思わず「言ひ果せて何かある(=言い尽してしまって、いったいそこに何があるのか)」と切り返した…
…という感じの話です(こう要約すると退屈な文になってしまいますね)。

「何かある(何があるのか)」というのは文法的には「反語」という意味で、疑問形で発しているのだけど相手に尋ねているわけではなく、「そこにいったい何があるの?いや、何もないでしょ?」という強い否定です。普通に否定するよりも迫力があります。

芭蕉は、語りつくさないことこそが俳諧の本質だと喝破しています。「言わぬが花」ってやつです。実は、音楽もこれと全く同じですよね。ビースト三原則にも同じことが書かれていますが、つまり、良いものは良い、ただそれだけで、言葉にすることで一つに規定されてしまうのならば、無理にしなくても良いのでは、と。

とは言え、作品への論評やライブレポートは必要なものであり続けると思います。

芭蕉は「この世に恒久不変のものなど何一つとしてない。人間の命や地位名誉はもちろん、目の前の大自然だって常に形を変え、いつかはなくなってしまう。ただし、一つだけ変わらないものがあるとしたら、それは人の言葉だ」とも言っています。残そうという人の意志がある限り、永久に受け継がれていくのだと。

評価する人がいて初めて作品は作品として成立します。「残そう」という意志、「良いものを、人に伝えよう」という気持ちによって、素晴らしい作品はよりいっそう輝くことができる。そこにBEEASTをはじめとしたメディアの意義があるわけで。

伝えることの意義と、難しさ。どれだけ寄与できるか。受験を終え、ほんの少し余裕の生まれた今日、自分の使命と改めて向かい合い、考えていきたいと思います。