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スタッフヴォイス

鈴木亮介 Vol.10

2010年01月22日

十訓抄に、こんな話がある。

九重の塔の飾りに、本来は金物を使わなければないところ、牛の皮で制作した、すなわち安物を使ったのではないかという疑惑が浮上して、責任者を処罰しろという世論になった。時の天皇=白河院が職人ナニガシを呼んで、「塔に登って確認して真実を伝えろ」と命ずのだが、その職人は塔の途中で登るのをやめて引き返し、「(塔が高いから)怖くて白黒判別できる心境じゃない」と泣いてしまい、それを見た天皇は大いに笑い、特に誰に対する処罰もしなかった。

それに対して世論は「職人ナニガシは馬鹿の手本だ。ちゃんと勅命に従って確認し、真実を明らかにすべきだった」とその職人を非難するのだが、ある公家が「職人は神仏の加護のあるべき男。自分が真実を明らかにすることによって誰かが処罰されてしまうことを憂いで、それを避けるため、自ら阿呆を演じたのだ」と評する。

…という話だ。テーマとなるのは、「真実」とは何かということだ。話を隅々読み返してみると、「事実」はたったの一つ「職人が塔に登って、途中で引き返した」というだけであり、あとはすべて人々の噂や思い込みなのだ。塔の上の飾りは、本物かもしれないし、ニセモノかもしれない。誰も真実は知らない。

というか、知らなくてもいいのだ。

なぜ知らないかと言えば、高くて見えないからだ。だったら、別に「あそこにあるのは金でできた本物だ」と信じればいいじゃないか。真実とは集団幻想ではないのか。現に、「処罰されるべきだ」とか「職人ナニガシは馬鹿の手本だ」とかは全部根も葉もない噂が根拠になっていたり、人々の勝手に思い込んだところが論拠となっているのだから。職人がなぜ引き返したか、泣いたか、本人以外に真実を知る者はだれもいない。でも皆、職人が自ら語った「怖い」という言葉を信じ、自分の脳内で勝手なイメージを作り上げるのだ。

小生は最初、この職人ナニガシの行動を愚かだと思った。責任者が処罰されるのがかわいそうだから自分が罪を被るなんて、おかしいのでないかと思った。

でも、それは浅い読解である気がしてきた。

一般大衆は皆、誰かが叱られたり処分されたりする、足の引っ張りあい的な、誰かが貶められることへの関心は高く、それに対しての信仰性は一段と強まる。ネガティブキャンペーンが大好きなのだ。それに対してこの職人ナニガシが諌める意味で「馬鹿を演じた」というならば、この職人の思考は大変に深い。 この職人ナニガシは、そこまで人間の真理を見透かした上での行動をとったのかもしれない。

…という後世の我々の読解も、公家の読解も、大衆の読解も、皆全て「思い込み」だ。
真実とは、自分が分かろうとして分かったと思いこむ範囲において認識され、真実と認定される。その信憑性は、客観性とか反復性とかデータなどによって裏打ちされるのだけれど、でもいずれにせよ全ては思い込みであって、その精度が高いか低いか、より正解に近いか、遠いかにすぎない。どれだけ近かかろうとも、正解そのものではない。「肉薄している」レベルなのだ。

真実とはいったい何だろうか。そんなことを考えさせられる話であった。

※お陰様で前回のスタッフヴォイス「親の年齢を知らない高校生」に、多くの反響を頂きました。引き続き、ご意見・ご感想・叱咤激励を賜れれば幸いです。
鈴木亮介拝
http://www.geocities.jp/ryosuke_bellwood/