連載

TEXT & PHOTO:鈴木亮介
第20回 Stand Up And Shout ~脱★無関心~

Photo東日本大震災の発生から4年を迎えた。これまで当連載では主に宮城、福島など東北を中心に震災復興に携わる人、場所を取り上げてきたが、今回は北関東・茨城県に焦点を当ててみたい。
 
茨城県は東日本大震災により死者数65人、行方不明者1人、避難生活者は県外からの避難者を含めて4,265人。建物は約2600棟が全壊。とりわけ沿岸部は津波被害や液状化など被害が大きく、多くの漁港や鹿島臨海工業地域の工場、発電所が被害を受けた。(参照:復興支援情報サイト 助けあいジャパン
 
中でも北茨城市や日立市など県北部は福島第一原発にも近いこともあり、震災後は大幅な人口流出が続いている。日立製作所の創業地である日立市は、一時は県庁所在地の水戸市を上回るほどの人口を記録していたが、現在は18万人弱にまで人口が減少。市が2011年9月に発表した「日立市震災復興計画」の中でも「震災以前から抱えていた人口の減少や少子高齢化の進行などの構造的な課題」を認め、「ライフスタイルの転換期」としての復興を掲げている。
 
このままでは街が消滅してしまうのでは?そんな懸念に対して、ロックができることは――。今回紹介するのは5人組ロックバンド・THE SALA中村俊仁(Bass)と大高恵美子(Vocal)だ。
 
彼らは茨城で生まれ育ち、全国的なライブ活動を展開しながらも、2012年より地元・日立市で東日本大震災復興祈願野外チャリティフェス「Place」を毎年主催している。一介のバンドマンでありながら、地元・日立市の協賛も取り付け、昨年は観客4千人を動員するフェスを大成功に収めた。また、震災当初は自らも被災地域の住民でありながら、全国のファンから救援物資を集め、東北各地に届ける活動も行っていたという。
 
震災から4年を経た今、彼らが感じていることは。そして、未来への展望は。太平洋に臨む、日立駅前のカフェで話を聞いた。
 

Photo◆THE SALA プロフィール
前身バンドが活動休止に。メンバーの中村俊仁(Bass)と大高恵美子(Vocal)が2012年にTHE SALAとして再始動を決意しメンバー募集。
 
現在、井上創(Guitar)、包康平(Guitar)、万木啓揮(Drums)を加えた5人編成+佐藤友奈(スタッフ)で東京、名古屋、大阪でのライブを中心に活動。2012年2月には1stミニアルバム『pray』を全国リリース。現在、新たなアルバムを制作中。
 
中村俊仁は茨城県日立市出身・在住。大高恵美子は茨城県水戸市出身。ともに1984年生まれ。
mk100
 
◆Place 2014
・2014年9月20日(土)@茨城県日立市河原子北浜スポーツ広場

出演:
THE SALA(茨城) / ココロ、ハレル(茨城) / Corn start’s(茨城) / スマトラブラックタイガー(茨城) / Any colors orchestra(茨城) / Anny(神戸) / THE SNEEZE(東京) / BLACK BILLY(東京) / GREEN EYED MONSTER(厚木) / NATTO(厚木) / nainaiboys(東京) / NANAIRO(東京) / NONPERFECTION BEE STORY(東京) / JIJIE(東京) / RABBIT WHICH BURNS(東京) / acolytes(山口) / RATTLE★KIDZ(名古屋) / All Time My Action(福岡) / Complex Numbers(福岡) / Trinity+(茨城) / OVER THE DOGS(東京) / REDMAN(東京) / HEAD SPEAKER(和歌山) / SECONDWALL(東京) / EYES MEAN NOTHING(名古屋) / 東京ネイルキャッツ(東京) / ロマンチスト(東京) / 27-HATANANA-(東京) / Cicada of eighth day(茨城) / 雅博(東京) / 江畑貴弘(東京) / 佐藤達生(東京) / 海月(東京) / marigold(茨城) / mana(茨城) / Civilian SKANK(沖縄) / sugar’N’spice(東京) / 朝日駿(茨城) / +りょう。(茨城) / ユリエ(茨城) / TAKU@STUDS(神奈川) / W-Hi(東京) / 藤井ケイイチ、柴田和貴(茨城) / 金谷好益(大阪) / MEi凸(大阪) / HEAD LAMP(大阪) / あすか(茨城) / RA-U with NAKED ROOTS(東京) / Infinity∞Throat(茨城)
多賀中学校吹奏楽部 / 常陸國大子連 / 時空戦士イバライガー / 水戸ご当地アイドル(仮)
DJ タイラダイスケ(東京) / DJ 工藤マサヤ(東京) / DJ Kanemits(福岡) / DJ KAZU(北九州) / DJ U☆Z(名古屋)

 
mk200主催:
THE SALA
Courage Ship Music
茨城県復興支援団体 Place Project
後援:
日立市
日立市観光物産協会
日立市教育委員会
協力:
club SONIC mito,iwaki
live labo Yoyogi
SOUND HOUSE RASPBERRY
有限会社 水戸 D.M.S

 
Photo Photo

Photo Photo

—お二人はご出身が茨城ということですが、まずは音楽を始めたきっかけを教えてください。
 
中村:僕自身は中学生のときにバンドを組んでから今までずーっとバンドを続けています。前身のバンドは2008年頃から恵美子をボーカルに迎えて、年間140本全国各地でライブをするくらいのツアーバンドでした。
 
大高:私は元々スタッフとしてくっついていて、2008年からボーカルになりました。それまで音楽活動などは未経験です。
 
—それは珍しいですね。どのようなきっかけで歌うことになったのですか?
 
Photo大高:2007年頃にボーカルが脱退してから一年間ずっと探していて、なかなか見つからなかったんです。ライブはゲストボーカルを迎えたりボーカルなしでやったりしつつ、ボーカル候補に何人にも会って、歌がうまい人もきれいな人もいたけど決定打に欠けていて…
 
—そんな状況をスタッフとして見ていて。
 
大高:私がやらないとだめかもしれないという心境になっちゃって。見ていられなかったんです。私自身、人前で歌うような性格ではなかったし、ボーカルとして技術も経験もなかったけれど、ずっと一緒にツアーも回っていたからバンドのこと、発信したいことは誰よりも分かるという自信があったんです。
 
—でも技術は後からついてくるというか、マインドの部分は簡単に作れないですよね。
 
大高:そうですね。そこだけしかなかったので。でも最初の頃はハードすぎて毎日泣いてましたね(笑)
 
—なるほど。それで、2008年頃からずっと活動を続けていて…
 
中村:そうです。その後、前身バンドは活動休止になりました。
 
—茨城は大部分で震度6強。かなり揺れましたよね。
 
中村:津波や原発といったものを除いた、単純に地震だけの被害というのは実は茨城県が一番大きいんですよ。建物の倒壊や物の破損など…震度も最大震度を記録した宮城県栗原市の次に大きくて、最初は震度7と報じられたくらいです(後日震度6強に訂正)。ありとあらゆるものが壊れて、街は地震でぐちゃぐちゃになりました。
 
Photo—発生したのは昼過ぎでしたね。そのときはどちらに?
 
中村:震災当日、うちらはその日の夜にライブがあって、車で水戸に向かっていました。地震が起きたときには水戸気象台のあたりにいたのかな。車がひっくり返るんじゃないかってくらい揺れて、電信柱が倒れて目の前のビルのガラスも割れて…想像を越える光景が広がりました。
 
大高:普段は閑散としている駅前通りが原宿ばりに人がいて!人がどんどん集まってきました。
 
中村:余震が起きるたびに悲鳴が起きて。夜になると全ての電気が切れているから超真っ暗で…
 
大高:その分星がきれいだったけどね。そのくらい真っ暗で。
 
中村:ライブハウスも崩れてしまったし、ひとまず日立に帰ろうとしました。けれど道路はすごく混んでいるし、橋が崩れていたり、地面が割れていたり、隆起して水道管が噴出しているところもあって…ガソリンも皆入れられない状況でしたが、たまたまうちの機材車が軽油だったので給油してもらえました。
 
—そうですよね。それでやっとの思いで地元に戻って…
 
大高:水もガスも電気も一週間くらいずっと復旧しなくて…昼間は片づけをやって、夜は暗くて何も出来ないし寒いし。
 
中村:夕方5時くらいに寝て、朝4時くらいに起きる。で、トイレの水とかは川で汲んできて。
 
Photo—本当に原始的な生活ですね。食べ物はどうしてましたか?
 
中村:たまたま買い置きしていたものがあったので何とかなりました。恵美子は当時一人暮らしだったので、うちから食料を持っていって。
 
大高:地元のスーパーはディズニーランド状態でした。自衛隊の水の配給も4~5時間並ぶ状態で、おばあちゃんが倒れてしまったり。
 
中村:うちの親父は仕事の関係で震災直後からずっと福島に行き、帰ってきたのは4月になってからでした。そこで、うちらも何かやらないといけないなと決意しました。SNSはつながっていたので東北に支援物資を機材車に入れて持っていこうと思って、バンド仲間やお客さんに声をかけて支援物資を集めて宮城の帰宅困難者のところに持っていったんです。
 
—それはいつ頃ですか?
 
中村:4月に入ったくらいです。
 
—そもそも自分たちも大きな被害に遭ったという中で、そこですぐに東北に目が向いたんですね。
 
中村:うちらは周りに死んだやつがほとんどいなかったし、動けるので…
 
大高:主じゃないところ(=避難所から離れた地域や、メディアから注目されにくい地域)で支援物資に困っていると言うことも偶然聞いて知ったんだよね。
 
Photo中村:そうそう。僕の親戚が福島に住んでいるので、まず福島の避難所に行ったんです。そのときに「支援物資はたくさん来るけど避難所にしか来ない。避難所に来れない人たちには物資が届いていない」という話を聞いて、「じゃあうちらはそっちに届けに行こう」と決めました。それで、宮城県の一番南の山元町と亘理町に行ったんです。
 
大高:お年寄りの住んでいる家を一軒一軒訪問して、「ほしいものはありませんか?」って聞いてね。
 
—そういった支援物資の呼びかけができたことは、元々ライブを通じて全国的につながりがあったことが大きいですよね。
 
中村:そうですね。かなり集まりました!東京も名古屋も九州も広島も神戸も大阪もみーんな送ってくれて。「この子たち対バンしたのもう8年くらい前だよな」っていう人たちも協力してくれて。
 
—嬉しいですね!
 
中村:それで、(揺れや津波が)直撃したところというよりは、メディアの目が向かなかったところばかりを僕たちは狙っていきました。役に立てそうなところをうちらなりに考えて。そうして続けているうちに、被災地の皆さんのほしい物の量より支援物資として送られてくる物の量の方が増えてきたので、いったん打ち止めにして…自分たちの住む茨城に目が向いたのは、そのときです。
 
—茨城県の現状を改めて見直して、どのようなことを感じましたか?
 
中村:茨城県は震災の実被害より二次被害の方が多いんです。放射能の問題でも、トンネルをくぐっ(て南下し)た関東地方からは支援の体制も違うし。この辺りに住んでいた若い夫婦とかはみんな南に流れちゃったんですよ。
 
Photo—なるほど。
 
中村:2011年だけで1万5千人くらいの人が他の街に移ってしまったんです。人口の減少率が全国1位に。栄えていた頃から見たらびっくりするくらい人がここ数年でいなくなってしまって、このままでは街が死ぬと危機感を持ったんです。
 
大高:被害が大きかったのは東北3県なので、テレビがそちらを多く取り上げるのは理解できるのですが、茨城でも震災があったことが全く認知されていなくて。例えばライブで大阪や名古屋に行くと「茨城でも地震があったんだー」と言われることもあります。イベントも東北での開催が多くて、茨城は人数も減っているし、どんどん元気がなくなっていく。そこで、うちらの、茨城に住む人たちの思いを全国に発信できるくらい大きいことをやろうということで、フェスをやろうと思いました。
 
—少し話を戻しますが、2011年の一年間はしばらく東北への支援を続けて…一方で、バンド活動はその間どのような状況でしたか?
 
中村:2011年の終わりくらいにサポートメンバーを入れて少しずつやり始めましたが、本格的に再始動したのは2012年になってから、震災からほぼ1年後です。
 
—震災が起きてからバンドの活動を再開するまでにはどのようなプロセスがありましたか?
 
Photo中村:結局はずっと待つしかなかったので。世の中の節電ムード…もちろん今でもちゃんとしないといけないけど、今はある程度需要に対して供給が追いついてきましたが、2011年当時は特別ライブをすることもなく、ずっと2人でコンクリむき出しの廃屋みたいなところを活動拠点にして、近くのドラッグストアや居酒屋の手伝いをしながらお金を稼いでただただ曲を作って待っていたという感じです。
 
—それは、前のバンド4人で?
 
中村:いや、他のメンバーの意思を聞いたところ前のバンドのギターとドラムは音楽活動の第一線から退きたいということで、震災直後に恵美子と2人だけになってしまって。
 
—中村さんと大高さんは「音楽をやめようか」という葛藤はなかったですか?
 
中村:すごくありました。やめようというよりは、もう一生やれないんじゃないか?というのはありました。家はそんなだし、街はこんなだし、メンバーもいないし…でも、やってほしいというお客さんたちがいたので、「やるならもう一生やろう、やめるなら今やめよう」と考えたときに、2人ともやる方を選択したんです。
 
大高:それで、いろんな意味をこめたバンド名にして。
 
Photo—「THE SALA」というバンド名の由来は?
 
中村:僕の大好きな小説『小公女』に由来しています。主人公のセーラ・クルーはどんなに意地悪をされても嫌なことをされても「愛であなたの世界を変えてあげる」と言います。「やさしさで世界を変える」というイメージが、僕たちの「愛のこもった音楽を通してお客さんの意識を変えたい」という思いとものすごく一致していたので、バンド名につけました。恵美子も「やさしさを発信するにはそれ相応に戦える強さがなければいけない」ということで、強さとやさしさを兼ね備えたバンドにしようと。
 
大高:私は地震が起きたときに読んだ『ジャンヌ・ダルク』に大きな影響を受けて。声で戦うというのはボーカリストにも通じるところがあって…その辺りの考えも込めて、メインロゴは中世ヨーロッパをイメージしたものにしました。
 
—とても意義深いですね。
 
中村:前身のバンドが超ノリで決めてしまった名前だったので、今度は後悔しないように、と(笑)
 
—そうすると音楽を続ける決断をしたのは、お客さんの声が大きかったんですね。
 
中村:2011年の夏、一度だけライブ活動を再開したときにみんな「生きていて良かった!」と喜んでくれて。決して僕たちはスーパースターではないのに、待っていてくれる人たちがこんなにもいたんだって実感して、嬉しかったです。
 
大高:最初はまだメンバーも見つかっていなかったので、この2人でアコースティックユニットとしてライブに出たんです。名古屋でお世話になっている人から「大事な日だから絶対にいてくれ」と言われて。
 
Photo中村:まるで自分たちのホームかのようにみんな待っていてくれていて…お客さんの中には名古屋在住じゃない人もいましたね。
 
大高:そこで、この人たちは裏切れないなと思いましたね。
 
—曲作りもその間に着々と。
 
中村:はい。
 
—作り方は震災前と後で変わりましたか?
 
中村:言葉の部分はかなり変わりましたね。音作り自体は、元々ジャンルにとらわれずに幅広く作っていたので、曲つくりのスタンダードは変わってないですが、恵美子が書く歌詞が…
 
大高:あまり慣れていないこともあって、自分の意志みたいなものを最初はうまく表現できていなかったのですが、地震があってからそこを見つめなおす時間が増えて…今までは、元々あったバンドの中に後から私が入ったので、追いつくことに必死だったんです。色んなものに目を向けて、私がやりたいことは何だったのだろうと自問自答できる時間ができて…そこから歌詞が変わりましたし、自分自身かなり成長したかなと思います。
 
中村:そこから1年間で200曲くらい作りました。バンドで仕上げるところまでは行っていないものもありますが。3月~4月の頃は何もすることがなかったし、なるべくガソリンも電気も使わないように…という生活だったので、ずっとアコースティックギターを弾いているか本を読んでいるか、しかなかったんです。生まれて初めて一日がこんなに長いのかと感じましたね。
 

「Friends」 作詞:大高恵美子
 
青い空に手を掛けて 遠くの未来を覗いてきた
誰にも染まらない“白”はどんなヒーローよりもずっと優しかった
 
忘れ去っていく日々に 宝物を探しに行こう
あの日見た虹をぼくが架け橋にしていればきっとまた会えるさ
 
春風 走って 空へ飛んでいく
見つけた約束 そっと集めてた
 
夕焼け 寄り道 流れた涙を
ちっぽけプライド 君が消してくれた
 
あの日の思い出 全て
あなたの花にする
 
あなたの想いは全て
みんなの夢になる

—そして、地元茨城に目を向けて、フェスをやろうと決意するわけですが…やろうと思うようになったのはいつ頃ですか?
 
中村:バンドが活動再開してすぐ、2012年の春頃ですね。音楽で何かできることはと考えて、一番大きいことといったら野外フェスしかないなと思いました。たまたま僕が人生で初めてロックバンドを生で見たのが、かみね公園の野外ステージで。かつてはバイクのヘッドライトを照明代わりにしてライブをやるような場所で、それが印象に残っていたので、ここでロックフェスをやろうと決めました。
 
—素人考えなんですが、そもそも「野外フェスをやりたい」と思って…それで、できてしまうものなんですか?最初のアクションは何から始めたんですか?
 
Photo中村:実は僕自身、音楽プロダクションで働いてコンサート制作の仕事を請け負っていた時期があったんです。各地のイベントに派遣されてコンサートのコーディネートをやっていたので、仕切り方はわかっていたんです。音響とかも自分たちで機材を持っていたし、ライブハウスに声をかけて必要なものをそろえて、まずは自分たちの実費でやってみようということで80万円くらい突っ込んで(笑)。仲間のバンドを呼んで、入場料は無料。1回目はただ単にやってみたんです。
 
—その行動力はすごい!やってしまえるんですね!
 
中村:しかも初年度は日立と仙台でもやったんですよ。仙台の日はもう見るも無残な土砂降りで(笑)でもここまできたらやるしかない!ってやったら、もう色んなものが壊れて…
 
大高:即席でビニールシートを機材にかぶせて、ステージが終わるたびに雑巾でステージを拭いてね!自分たちで手作りでやった!っていう達成感はありましたね(笑)
 
中村:その後、2年目に観光物産課の後援がつきました。
 
大高:1年目が大変だった分、経験値がついて、仲間も増えて、結構いい景色が見られて、これを頑張って続けていこうと。
 
—そこから順調に…
 
Photo中村:それが、3年目にその野外ステージが地震の耐震強度の検査に引っかかってしまって、「取り壊すことになりました」って(笑)
 
—えー!
 
大高:基盤が出来たかな?って思ったときにね。
 
中村:でもやめるわけにはいかないってことで観光物産課の人と相談したところ、「実はこういう場所がある」ということで、昨年の会場である河原子北浜スポーツ広場を紹介してもらいました。ただ、何もないだだっ広い芝生で…
 
—ピンチですね!
 
中村:でもやると決めたから!と仲間に話して…そうしたら「実はこういう社長がいて、ステージを作ってる人が日立にいる」と、たまたまその人に話した一言がきっかけで社長さんに会うことができて、「俺に任せろ、やれ!」と言ってくださって。
 
大高:ありがたかったね。
 
中村:それから「俺がこれ手伝ってやるよ」と話がどんどんどんどんデカくなって、観客動員が1年目は300人、2年目は700人だったのが、3年目の去年は隣の漁港で打ち上げた花火大会のお客さんも含めておよそ4000人まで規模が一気に膨れ上がったのです。本当に僕らは人徳だけはあるみたいで、いろんな人が協力してくれて、実際は150人くらいのスタッフでやらなきゃいけないくらいの規模だと思うんですよ。それを僕らだけで…事務的な書類の申請とかは僕1人でやってましたね。もう想像を超える仕事量です(笑)
 
Photo大高:その当時の映像を見るとみんな痩せてて、大変だったんだなぁって(笑)。結構ギリギリでやってましたね。でも、私たちだけでは最終的に回せなくなって、仲間たちがうまく回してくれて、結果的に事故も苦情もトラブルも1件もなく終わることが出来て。
 
中村:あれは奇跡だったね。反省と言ったらうちの演奏がグダグダだったことくらいかな。
 
大高:それ以外は何もかもうまくいった!(笑)
 
中村:もう疲れすぎてて。最終的に「よくあれライブできたよな」って感じでした。最後はステージにみんな上がってくれたんだけど、ギターのシールドは抜けちゃうし、誰かがエフェクターを踏んで音が出なくなっちゃったり(笑)
 
—それもフェスの醍醐味ですね(笑)。3年目を終えて手ごたえはだいぶ感じているのでは?
 
中村:そうですね。1バンドがやる規模じゃないところまで行っちゃったので、行政関係でも音楽業界でもどこに行っても有名になっていて、バンドよりもフェスの方が知られているということも増えました。それで、東北の震災復興イベントを企画しているチームと知り合えて、今年は「Place」をみちのくフェスティバルラインという太平洋沿岸部のチームとして開催するんですよ。
 
Photo—なるほど。チームとしての開催で、去年とどのようなところが変わるのですか?
 
中村:各会場の宣伝を一緒にやろうと言うことで、その仲間に僕ら茨城の企画も入れてもらえました。これは自分たちの野外フェスを世の中に発信できる大きなチャンスだと思っています。
 
—さらにスケールアップして開催できそうですね。
 
中村:桁が違うくらい大きくなりそうです。
 
—今のところのスケジュールはどんな風に進んでいるんですか?
 
中村:市役所との打ち合わせは既に始まっていて、チームとの事業の内容を詰めて…それから、後援をいただく教育委員会と一緒に色々考えています。恵美子が絵を描くので、一緒に地元の子どもたちの絵を野外フェスに飾ろうという企画を去年実施しました。それをしっかりと告知して日立市内の全幼稚園、小中学校に協力してもらうことを目指しています。
 
大高:茨城の子どもたちが積極的に参加できる場を作りたいとも思っています。地元の中学校の吹奏楽部にも同じステージに立ってもらって。茨城のことを、他県から来る人はもちろん地元の人に知ってもらうという目的もあります。
 
中村:「音楽コンサート」「地元の夏祭り」「花火」を合体させた野外フェスにしようというコンセプトなので、地元の人たちにどんどん参加してもらえれば。
 
Photo大高:これまでロックバンドのライブを観たことのない地元の人に見てもらいたいという思いもあります。
 
—開催が楽しみです。最後に、「Place 2015」のことも含めて今構想していること、今後の展望をお聞かせください。
 
中村:実は今、自分たちの練習スタジオを建てていて、ライブもできる場所にしたいと思っています。ライブハウスとして経営していくには乗り越えなければいけない壁がありますが、最終的には土日に地元の若いバンドがライブをできるような場所を作れればと思っています。
 
大高:日立の街については、駅前の銀座通りに活気を取り戻したいです。
 
中村:元々は週末になると人が沢山集まって、銀座通りは歩行者天国にしていたのですが、今はシャッター街で、歩行者天国もやめてしまったんです。だから、そこでお店をやる人がまた増えて、元に戻す…僕たちの野外フェスがそのきっかけになれればと思います。昔のように、個人でやってる服屋とかカフェとか…環境は悪くないので、ただ単にそこに一歩踏み出す勇気というか、状況がないだけだと思うので。
 
大高:やってみないとわからないからね。続けてやっと形になるというか、色々やってみてわかることもあるので。
 

「Place 2014」フォトギャラリー
(写真はオフィシャル提供)
 
2014-1
2014-2
2014-3

日立で生まれて青春時代を過ごし、この地で30年生きてきた中村俊仁。彼によると、日立には元々ライブハウスがなく、人前で演奏をするとしたら路上ライブが基本、1年に1回お金を貯めてライブハウスに出る…といった状況。水戸市まで行けば環境は整っているが、それでもかつては老舗のライブハウスしかなかったため、学生が気軽にライブに出られる状況ではなかったという。
 
Photo「僕らはバンドを組んで最初から全国のライブハウスに出ようとしたんです。(地元の先輩に)前例がないから行動するしかない!ってことで全国のライブハウスに電話をかけて、リハーサルのやり方から何から、東京や千葉の親切なライブハウスの方に教えていただいて、それで学んで行ったんです」と彼は語る。そういった点を一つ取っても、このフェスの意義は大きい。日立で生きる若者たちがロックに触れ、楽しむ機会…大げさに言えば「文化の形成」を一手に担っているのだ。
 
インタビューでは終始、2人が前向きなトーンで、笑顔で語っていたのが印象的であった。例えば「東北に比べて補償が少ない」と言ったネガティブな話は一切なく、「こういう事態があってもうちの街は負けないし、もう一度元気になれるんだと主張したい」と話してくれた。47都道府県で唯一テレビ局を持たない茨城県において、全国をまたに活動するロックバンドはメディアとしても大きな役割を果たしている。
 
帰路の特急ひたちの車中で、確信したことがある。「震災からの復興を願う」というスタンスは今、過渡期に入ったということだ。震災復興を願い続けてきた本連載「脱・無関心」だが、震災から4年を経て状況は大きく変わってきた。もちろん時計の針が止まったままの地域もあれば、日立市のように新たな問題に直面している地域もある。そしてこれから人口減と高齢化が全国的に進む中で、東日本大震災の被災地に限ったことではない、日本各地で考えるべき街づくりの問題が、そこには大きく横たわる。
 
その中で「Place」と出会い、2人の話を聞いた今、人と人がつながり、前向きなエネルギーが連鎖していくことの意義を改めて感じずにはいられない。人が集まり、やさしさをもって関わることができたならば、世界は広がる。街は変わる。
 

◆「Place 2015」秋頃の開催決定!
詳細は公式HP等で随時発信!
http://the.sala-web.com/fes2014/top.html
◆THE SALA 公式サイト
http://the.sala-web.com/
 


 
取材協力:Cafe Cortot

茨城県日立市旭町2-8-6
TEL:0294-33-7778
営業時間:11:30~22:30
https://www.facebook.com/pages/Cafe-Cortot/525621640882553


◆関連記事
【連載】脱・無関心 バックナンバーはこちら
http://www.beeast69.com/category/serial/mukanshin


 
 
  コラムニスト
The HIGH
さかもとえいぞう
2019年5月30日更新
人生の宿題その4(最終回)
mondo
中村 “MR.MONDO” 匠
2019年11月23日更新
第十三回「一問一答 Part.2」
PINK SAPPHIRE
PINK SAPPHIRE
2019年4月3日更新
第20回「AYA」
永川敏郎
永川敏郎(Toshio Egawa)
2019年5月29日更新
Progressive Man 第42話