特集

TEXT:鈴木亮介

kiyo00今波に乗るガールズロックバンドにスポットを当てる特集「rock girly parfait」。今回は清原梨央きみとバンド)のインタビューをお届けします。
 
きみとバンドは2020年に結成された3人組ガールズバンド。日向坂46への楽曲提供などで知られる古城康行を音楽プロデューサーに招き、2020年から2021年にかけて47都道府県ツアーを敢行。着実にファンを増やし、2022年8月にはZepp Hanedaでのワンマンライブをソールドアウトさせるなど、注目を集めています。
 
バンドのフロントマンを務める清原梨央(Guitar &Vocal)は元々アイドル出身。2017年から2019年にかけて、秋元康プロデュース「ラストアイドル」の初期メンバー(Someday Somewhereの一員)としてメジャーシーンで活躍していた経歴があります。アイドル引退後のセカンドキャリアとしてバンドを選択。結成後にギターを始めたという異色の経歴を持ちます。
 
そんな清原梨央が、自身初のフォトエッセイ(タイトル未定)を制作し、2023年1月に発売予定。エッセイの中では自身が小中学生時代に保健室登校をしていたことや、メジャーシーンで活躍するアイドル時代とその引退、バンド結成に至る心境などを赤裸々に綴っています。今回BEEASTでは「セカンドキャリアとしてのガールズバンドという選択」に着目し、清原梨央自身へのインタビューを実施しました。
 

清原梨央(きみとバンド) プロフィール
愛媛県出身。ガールズバンド「きみとバンド」のギター・ボーカル担当。2017年~2019年の約2年間、秋元康プロデュース「ラストアイドル」に所属していた。バンド活動以外にも「村上海賊記」などの舞台出演など多方面で活躍している。特技は韓国語。趣味はコスメ収集やメイク、アニメ鑑賞など。最近は料理にハマっている。
 
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バンドは「長く続ける手段」 結成後に楽器パートを決めた



 

— 「きみとバンド」は2020年頃から活動を開始していますが、元々どういう経緯で結成したのですか?

 
清原:かなり異色な形でのスタートだと思います!私が元々ラストアイドルというアイドルグループに在籍していたのですが、卒業したら”会長”(=清原梨央をスカウトした門田陽平プロデューサーのこと)のところに戻って活動しようということだけは決めていて。
 

— その時点ではバンドも含めて、まだ何をやるかは決めていなかった?

 
清原:はい。これからどういう活動しよう?と会長と一緒に考えたときに、「バンドは息が長い。おじさんになってもカッコいいバンドもたくさんいるし、長く芸能活動を続けていけるとしたら、バンドだね!」と会長が提案してくださり、同じ事務所の中で大野真依(Drums)と大野ひまり(旧メンバー。当時Bass & Vocal)の3人でバンドを組もうということに。「音楽が好きで、楽器を始めて、バンドを組んで…」というきっかけではなく、「組むよ」と決まってから楽器を買って始めました。
 

— なるほど。長く続けるための手段としてのバンドだったのですね。ステージに長く立ち続けたいのはどうしてですか?

 
清原:ステージ上で何か表現をすることが好きなんだと思います。学生時代は人前に立つことができない子だったので、そういう自分がステージに立つことで何か意味があるんじゃないかと思うんです。私の姿を見て勇気をもらってくれる人がいる限り、ステージに立ち続けたいです。
 

— 元々、高校1年生のときに地元・愛媛でスカウトされて、オーディションを経てアイドル活動を始めたのですよね。最初にスカウトされたときにはどんな心境でしたか?

 
清原:芸能活動を始めたきっかけが、高1の秋頃に会長にスカウトしていただいて、愛媛のオーディションを紹介されたことでした。当時はまだ人見知りだし引っ込み思案だったので「どうしよう」と思いました。芸能の世界なんてキラキラしてて自分とかけ離れてるなぁって(笑)。でも、そこに敢えて踏み込むことで、他の仕事に就くよりも自分が変われるんじゃないかと思って…
 

— 自分を変えたかった?

 
清原:はい。変わりたい一心で臨みました。常に変わりたいという気持ちがあったのですが、中学3年間ずーっと保健室登校から抜け出せずに卒業を迎えてしまったので、高校入学に結構な覚悟を決めていました。絶対変わろうと思って、知っている人がいない高校を選んで。高校が始まるとすんなり授業を受けられるようになって友達もできて、すごくうれしくて。
 

— それはうれしいですね。

 
清原:やっと変われたなという感覚があって。そこでもちろん満足ではあったんですけど、ちょぅどそのタイミングでスカウトしていただいたので、運命的なものを感じました。
 

— 恐れはなかったですか?

 
清原:いやーほんとに、恐れしかないです(笑)。スカウトから数か月後にエントリーしたそのオーディションは、年明けからSHOWROOMの配信審査から始まって、ランキング上位に入ったら翌春の最終審査まで行けるというものでした。最終審査が公開オーディションで、会場は「エミフルMASAKI」。私自身も昔からよく買い物に行っていた、愛媛を代表するショッピングモールだったんです!だから、最終審査まで通ったときは「やったー!」というよりも、「通ってしまった!どうしよう」っていう感じで。最終審査が決まってから、エミフルに行くたびに本当に心臓がバクバクしていて、臆病なのは変わらずでしたね(笑)
 

— それでもそこで勝ち進んだわけですからすごいですよね。デビュー後は緊張とか恐れはなくなっていったのですか?

 
清原:いやぁありますよ(笑)。高校生活も相変わらずで、国語の時間に順番で音読していくみたいな、ああいうのは高校で授業を受けられるようになってもずっと緊張していました。でもその割に、ステージに立つことの方が逆に緊張しなくて。学校への苦手意識はずっと続いていましたが、そんな性格の割にはステージに立てたので、この職業に向いてるのかなと思いました。
 

— だんだん自信が出てきますよね。

 
清原:そうですね。経験が一番。
 

— アイドル活動を続けていく中で「自分だから表現できる」「こういうことを表現したい」というテーマがあったのですか?

 
清原:常にあります。表現者として、自分の中でいろんなことを考えながらステージに立っています。逆に、計画や考えなしにステージに立ったことというのがなくて。今日はこういうパフォーマンスをしようとか…アイドル時代、自分は初心者で、他にアイドル経験やダンス経験がある子たちと一緒に活動していたので、実力だけで比べたら私に魅力がないなと思ったんです。だから、一生懸命考えて、やるしかない。ひたむきに一生懸命頑張っているという姿勢から明日も頑張ろうというエネルギーを受け取ってもらえたらなと思って、とにかく一生懸命やっていました。
 

— 常に考えていたんですね。

 
清原:そうですね。めちゃめちゃ考える性格なので。計画を立ててから活動していますね。
 

— その後、バンドを始めるとなったときに、アイドルのステージとの違いで戸惑いはなかったですか?

 
清原:うーん…あったにはあったのですが…。ラストアイドル卒業は私の中で結構覚悟を持って決めた決断だったんです。メジャーアイドルで秋元康さんにプロデュースしていただいている、そんな環境を自分から離れるなんて結構な勝負事なので、「後がないな」という気持ちになっていました。会長の下で次は絶対に成功しようという気持ちだったので、楽器も初めてだけど、何があってもやるしかないもんな!って気合いで乗り切る感じでした。それしかなかったです。
 

— 楽器を始めて、特にどんなところが最初は大変でしたか?

 
清原:いやぁもうすべてにおいて意味が分からなくて(笑)。普通は何かを見て「ギターかっこいい!自分も弾いててみたい」って思って始めると思うのですが、私たちの場合は「バンドやるよ!」ってなって始めたので。それぞれ気になる楽器を直感的に選んだのですが、知識が全くないのでコードの意味も分からず。Fコードが全く弾けなくて、いつになったら弾けるんだろうって、初めの頃はかなりつらかったです。
 

— 地道な練習の日々ですね。楽器とダンスではやはり勝手が違いますよね。

 
清原:ダンスも難しかったには難しかったのですが…ダンスの場合は1mm違ってもそんなに支障が出ないのですが、ギターの場合は1mm違うと音も変わってしまうので、その意味では楽器の方が難しかったです。
 

「そもそもいいライブって何だろう」 伸び悩み、逃げ出したかった47都道府県ツアーを経て



 

— 改めて考えると、楽器をやってからバンドを組んだのではなくて、バンドを組んでから楽器を始めたわけですよね。

 
清原:異色ですよね(笑)。しかも、ラストアイドルを卒業するときにはもうバンドのデビュー公演の日程が決まっていたんです。当初は2020年の3月にデビュー予定だったのですが、結局コロナで4度延期になって、8月にデビューとなりました。
 

— なるほど。結成から3か月後にはギター&ボーカルとしての初ステージが待ち構えていたわけですね。

 
清原:さらに、デビューライブの近い日に初舞台も控えていたので…ありがたいことに主演でセリフ量も多かったので、毎日セリフ覚えとギター練習で焦りまくってました。
 

— そこへコロナによる度重なる延期。表舞台に出るまでが決まらないというのも焦りませんでしたか?

 
清原:そうですね。1度の延期ならともかく、4度延期になるなんて聞いたことないなって(笑)。不安は増したんですが、なんせ会長がすごくポジティブな人で、「これもいい時間になるよ」って言ってくれて。確かに8月に延びたことでライブの完成度も高められたので、意外とみんなポジティブに受け止められました。
 

— バンド結成から今日までを振り返って、特に印象的だったことを教えてください。

 
清原:特に今年(2022年)は激動の1年でしたが、メンバー間でもよく話すのが「47都道府県ツアーはやって良かったね」って言っています。「47都道府県全てでライブを行う」ということで、デビューライブをした2020年の冬にスタートしたのですが、初日にいきなり大ゴケしちゃったんですよ。
 

— なんと!そうなんですか?

 
清原:同期音源と一緒に演奏しているのですが、1曲目から同期とめちゃくちゃズレちゃって、そのテンションを持ち込んだまま最後まで演奏して、アンコールで泣きながら「ごめんなさい」って言うという…(笑)。そんなスタートで、毎週末2会場を回って、コロナ禍ということもあり1都市を2公演に分けていたので2日で4公演行っていたのですが、毎回遠征で来てくださるお客様もいるので成長した姿を見せないといけないし、MCも毎度違う内容を考えるのが、楽しかったと同時にしんどかった経験ですね。今でもライブのハプニングに動じなくなったのは47都道府県ツアーで100公演以上やったのが大きいと思いますし、今の活動の軸になっていると実感します。
 

— 修行みたいな感じですね。

 
清原:ほんと修行だと思います(笑)。
 

— 最初のハプニングもなかなかですが、「47都道府県」という長い道中にも色々な思いが錯綜したのではないでしょうか。

 
清原:最後らへんになってくると、ゴールが見えて「あと何県だ」という気持ちでカウントダウンしながら取り組んでいました。中盤は「どう成長をお見せしたらいいだろう」、「そもそもいいライブって何だろう」と悩みました。音楽経験のなさから苦戦して…今は音楽経験のある森田理紗子ちゃん(Guitar & Vocal)が入ってくれましたが、当時はメンバーも会長も誰一人音楽に詳しくなかったんです。中盤で伸び悩んだ時期には、メンバー間で「もう限界かも」、「逃げたい」と相談し合うことも正直に言うとありましたね。
 

— 確かに回数を重ねると「音楽的な成長って何だろうか」という壁にぶち当たりますよね。その中で最後まで完走できたモチベーションは何だったのでしょうか?

 
清原:これはもう、ファンの方でしかないですね。「きみとバンド」というバンド名も「これから君(=ファン)と一緒にバンドをやっていきたい」という意味でつけたし、今までの困難もファンの方がいなかったら絶対に乗り越えられなかったと思います。パフォーマンスやライブにおいて自分のつらい・悲しい・しんどい心情って関係ない!って気づけたんです。自分にとっては何十回中の一個のライブかもしれないけど、その人にとっては最初で最後のライブかもしれないと思ったら一本一本気が抜けないし、届けなきゃいけない人がいるって改めて気づけたのが大きかったですね。
 

— その47都道府県ツアーの後に、初期メンバー(大野ひまり)の脱退があり、音楽経験のある森田理紗子を新メンバーに加えてステージも徐々に大きくなっているかと思います。2022年8月にはZepp Hanedaでのワンマンライブが満員となりました。

 
清原:いやぁ、もう、Zeppの景色は本当に忘れられません!最初は紗幕がついていて、1曲目が終わると同時に紗幕が下りてフロアの景色が見れたのですが、既に泣きそうになるくらいこみあげてくるものがありました。無事ソールドアウトしたのですが、それもファンの方に頑張っていただいてできたものだったので、前列にいるファンの表情や動きから伝わる熱量もすごくて、「きみとZepp」というライブのタイトル通り、みんなと一緒に来れたのだなということがその景色から伝わってきて、感動的でした。
 

— コロナ禍でファンとの関わりもコロナ前よりも少ない中、Zepp満席という結果はまさにバンドとしての実力が向上している証かと思います。バンドとしてどのように力を蓄えていったのですか?

 
清原:きみとバンドっていつも変わったやり方で活動をしていると評してもらうのですが、固定概念を壊すことが大事だと思っています。アイドルをやっていたときに「アイドルはこうあるべき」「こうしなければいけない」というものがあって、それがバンドになったら「これはやめてバンドらしくこうしよう」と最初はすごく考えたんです。でも、その必要はないんだなって。例えばバンドらしくない配信をするとか、何万件ものDMを送るとか、その(アイドル時代の)やり方で成功をつかめたので、メンバーたちもこのやり方でいいんだって確信に変わりました。
 

— 確かに配信をやってファンを増やしていくなど既存のバンドがアイドルから学べる手法も多そうですね。ステージ上のパフォーマンスでは何か工夫していることなどありますか?

 
清原:いっぱいあります!ライブでもパフォーマンスがいいねって褒めていただけることがあり、会長からも「MCでは梨央が引っ張っていけ」と言ってくださったり…アイドル時代の経験が生きているのかなと思います。バンドとしての自分の存在意義に悩んでいた私にとっては、とてもありがたい気付きでした。例えばちょっと隙があったときにファンの方にレスを送ったり、表情でも表現するようにしたり、ステージをより広く動き回ったり…アイドル経験を生かしたパフォーマンスが私らしい、唯一無二のパフォーマンスになるかなと思っています。
 

— 逆に、バンドとしての課題は現段階でどのようなことになりますか?

 
清原:「もっともっと知ってもらいたい」ということは常に考えています。Zeppワンマンでは約2000人のファンの方が来てくださったわけですが、現実問題としてその後の集客が全く苦労せず常に満員かというとそういうわけではないし、もっともっと有名にならなきゃな、たくさんの方に知ってもらわなきゃな、という思いはどれだけ成功しても絶えないかもしれません。
 

— ということは、清原さんとしてはもっと大きなステージをイメージしているということですね。

 
清原:はい。Zeppワンマンのときに「次は日本武道館に!」と言ったのですが、Zeppワンマンも元々口に出していた夢だったので、日本武道館も叶えたいですね。ホールでのライブをラストアイドル時代に経験しているので、バンドでもう一度叶えたいという思いがめちゃめちゃ強くて。目標は常に高く持っています!
 

「考えすぎて眠れない」 生きづらさと向き合い続けた小学生時代



 

— 元々幼少期からK-POPが好きだと伺いましたが、バンドを始めてから聞くようになった音楽や、参考にしているバンドなどはいますか?

 
清原:私が結構単純で影響を受けやすいということもあり(笑)。最近は自分らしいパフォーマンスを考えられるようになったのですが、バンドを始めた当初はまねっこばかりで、同じ四国出身で3ピースガールズバンドということもあってチャットモンチーさんには特に影響を受けました。デビュー当時には「シャングリラ」をコピーしたりもしていて、3人それぞれの個性も際立つので憧れがあります。3人それぞれがかわいいのにロックなカッコよさもあって最強だなって思って…自分の中でのバンド熱をかなり高めてくれた存在です。そのほかにも、いろんなバンドの動画を漁って「この人のパフォーマンスかっこいい」と思ったら真似したり、ギターのストラップの長さまで影響を受けていましたね。今はアニメにハマっていて、バンドアニメが割と多くあるので、それがモチベーションになったりもしています。
 

— ギタリストとしてのテクニックやパフォーマンスという点ではいかがですか?

 
清原:Mrs. GREEN APPLEさんの楽曲にはギターの好きなフレーズが多いので、空いた時間によく聞いて家で弾いてみたり、アニメの楽曲を調べて弾いたりもしています。自分たち以外の楽曲は練習にもなりますしテンションが上がりますね。
 

— さて、今回エッセイが発売されるということで、その内容についても伺えればと思います。小中学生の頃保健室登校をしていたということで、一人で考える時間が多かったのかなと思いますが、そのときどんなことを考えていたんですか?

 
清原:結構根が暗くて(笑)。小学生のときも、低学年の頃から誰かが集まって何か話している声が聞こえると「自分の悪口を言ってるのかな」と考えてしまったり、「いつか死ぬと思うと怖い」みたいな…生きているうえで起こる色んな不安なことを、考えてもどうしようもないのに常に考えてしまって…小学生の頃から割と不眠症で、眠れない子でしたね。
 

— 考えて考えすぎて眠れなくなってしまうという状態だったのですね。

 
清原:夜が怖くて。寝るという感覚も怖い。全てにおいていろいろ臆病な子でしたね。
 

— それは物心ついた頃から元々持っていた気質だったのか、学校という場所に行くようになって表面化してきたのでしょうか。

 
清原:そうですね。自分でもなんでだろうってずっと思っていたのですが、今回エッセイを書いていくうちに何となくわかった気がします。幼稚園の頃は本当に普通の子で、むしろ活発で人見知りしない子だったんですけど、小学校に入ると机がずらっと並んでみんなで座ってチャイムが鳴って授業が始まって、整列して先生の言うことを聞いて…ちょっと固くなってくるじゃないですか。その空気感が息苦しくなっちゃって。集団行動が苦手で、でもそういうのがこれから生きていくうえで必須ということはわかっていたので、そう思えば思うほど未来に不安が押し寄せてきて…という悪循環でした。ある意味、未来を現実的に見すぎてしまったのかもしれません。
 

— その不安の中には「本当はこうしたい」という、思い通りにならない現実への不安のようなものもあったのでしょうか。

 
清原:そうですね。結構頑固で、曲がったことも嫌いで、世間的に理不尽なことはなかなか受け入れられないというところがあったように思います。相手がいくら先生や上の人でも自分と意見が違うと思ったらその人に心を開けなかったりとか、悪く言うと協調性がない子どもでした。自分と違う人を受け入れられなかったり…なので、そういうところはあったかもしれません。
 

— 幼少期に今の自分のアイデンティティを作ったようなものってありますか?

 
清原:なんだろう…常に好きなものはありました。小学校の低学年くらいの時点でK-POPが好きで、少女時代KARAにハマっていたので、キラキラした女の子は昔から好きでした。でもその頃は自分がステージに立つとは全く思っていなかったし、高校生になってスカウトされたときにも芸能界への憧れみたいなものはなかったですね。
 

— つらかった小中学校時代に支えになったものってどんなものですか?

 
清原:家族です。どれだけつらかったり大変なことがあっても、21年生きてきた中で家族関係でつらいことは一度もなかったし、両親も全力で支えてくれました。当時の私は、他の子と違う自分が受け入れられなくて、普通でありたいという思いがどうしてもあって、そこ反抗期も重なって…そのときは上手に感謝を伝えることができなかったのですが、心の中ではすごくありがたく思っていました。こんな自分でもずっと好きでいてくれる人がいるんだし、家族のために生きていかないと、成長しないといけないと思えたので、小学校時代に両親や祖父母がいなかったどうなっていたんだろうっていうくらい、すごく支えられましたね。
 

— 当時の家族の支えを象徴する出来事や言葉はいっぱいあると思いますが、一つ挙げるとするとどんなことが印象に残っていますか?

 
清原:エッセイにも書いたのですが母にまつわるエピソードをお話しさせてください。小学校5年生で私が保健室登校になったのですが、そのタイミングで、私が自分の足で学校に行けなくなっちゃったんです。行けたとしてもお昼休みまでしかいられなかったり、長い時間学校に滞在できなくなって。それを知って、母が普通だったら休んでいいよとも気軽に言えないでしょうし、両親共働きでしたしできることに限りもあると思うのですが、出勤時間より1時間早く起きるようになって、毎朝私を車で学校まで送ってくれて、さらにお昼休憩の時間に急いで職場から学校まで迎えに来てくれて私を載せて家まで連れて帰ってまた職場に戻るというのを、小学校卒業までだけでなく中学に入ってからもしてくれてたので、その姿が頭から離れないですね。
 

— それは文字通り支えてもらった経験ですね。

 
清原:常に支えてもらっていました。
 

— 改めて今回エッセイを書いてみて、どんなことを感じましたか?

 
清原:客観的に読んで泣いちゃったりもしましたし、自分で見てもかわいそうだなと思っちゃうというか(笑)。生きるのが上手じゃないなって。今もそうなんですが、そのときの自分が頑張って生きていてくれたから今のこの未来があるわけなので、書いているとキラキラした人生じゃないですけど、でもこうして1冊の本にできたわけだし、傷ついた経験とかつらかった過去も含めて、今思えば誇りなのかもしれないなぁって感じます。
 

— 確かに、今につながる大切な時間ですね。

 
清原:こんな私でもステージに立てるんだよということを伝えたいって日頃から思っていて、ただ「こんな私」って言っても過去の私をみんなは知らないよな、とも思います。ステージでは本っ当に明るいので根から明るく陽気な子って思ってもらえるのですが、本当の私を知ってもらえた方が説得力も違うし、パフォーマンスに深みが出るんじゃないか。そう思って今回エッセイを書くことを決めました。つらい過去は隠したい方もいるかもしれないけど、私は表現者になったからにはやっぱ活かしたいなって。そういうのを知ったうえでパフォーマンスや私の言葉を受け取ってもらえたら。キラキラした部分だけでなく等身大の清原梨央を伝えていきたい。それをすごく意識するようにしていますね。
 

— 自分と向き合って考えていることが、表現に生きている?

 
清原:確かに。人間の根本は変わらないと思っていて、今でも神経質だし考え込むし、でもこうやってステージに立つようになって神経質なところや「生き方が不器用なところが好き」と言ってくださるファンの方もいて、昔とは変わっていないけど昔よりそういう自分を受け入れてくれる方が増えたのですごく生きやすくなりましたね。
 

— 考え込むことはマイナスの特性ではなくプラスの個性になり得るということですよね。

 
清原:そうですね。考え方次第。私は本当に神経質なので、今でもかなり考え込むことはあって、一つのことで落ち込んだりもするし、暗いニュース夜中に触れると、それについて考え込んで眠れなくなることもあります。でも、ステージでは明るい姿を届けたいし、届けないとって思います。
 

枠にはまらず、ありのままの自分で
— 最後に、バンドとしての今後の展望を教えてください。

 
清原:きみとバンドはメンバーのみんなで意見を出し合うというよりは、会長に考えてもらったプランを聞いてそれぞれがそれに向けて努力するという形でやっています。そういう環境でバンドができるってほかにないと思うので、周りの方に感謝して自分がやるべきことを全力で的確に果たしていきたいです。個人個人の成長がそのままバンドの成長につながると思うので、メンバーも私自身もバンドのためになることを挑戦していきたいと思います。
 

— きみとバンドが他のバンドと違うところって、どんなところでしょうか?

 
清原:なんでもやっちゃうところかな(笑)。今までどういう活動をしてきたかたどってきても、聞いたことないことばかりではないでしょうか。枠にはまっていないところが、良いように言えば唯一無二だと思うので、そこは崩さずにいきたい。これからも色んな人に出会って色んなものを見ていくと思うんですけど、そこでみんながブレずにきみとバンドらしさを貫けることが未来につながる気がします。
 

— 清原さん自身が新たに挑戦してみたいことはありますか?

 
清原:今回のエッセイがきっかけになればいいなと思っています。私自身、性格的に作り込んだ自分よりもありのままの自分の方が色んなことを届けられる気がしているので、これからは清原梨央そのものというか、人間らしい部分、生き方考え方で人を魅了できるようになれたら。それって一生ものだと思うし、ビジュアルだけでなく中身にも魅力を感じてくれる人が増えることを目標にしたいです。まだ勇気が足りないんですけど、バンドマンとしても、伝えたいことを伝えられるようになりたいです。
 

◆リリース情報
清原梨央 フォトエッセイ(タイトル未定) 2023年1月下旬発売予定
https://photoevent.shop/items/6371a65ebd5e4d4ebc31480f
 
◆きみとバンド 各種リンク先
https://linktr.ee/kimitoband