TEXT:Keiko “Ginger” Suzuki
国内のロックシーンの最先端を駆け抜け、輝き続けるフロンティアたちの横顔に迫るインタビュー特集「ROCK ATTENTION」。第44回に登場するのはKUNI。80年代初期、一人の青年がギターを持ってアメリカに渡った。その名はKuni Takeuchi(通称KUNI)、19歳。LAメタルブームに火が付く少し前から、彼はそのシーン全体をリアルタイムで体験してきた。
そしてアメリカという異国の土地でプロのミュージシャンとしての道を切り開いていった。それ以前からLAに住んでいた筆者は、彼がストックトンからLAに移ってくる際、一本の電話を受ける。「俺、LAに移ろうかと思って。どっか住むところ探さなくちゃ」と言った瞬間に「あ、うちの向かいの建物に確か空室の看板が出ていたよ」と答えた。彼は「じゃあそこでいいや!」と、一週間もしない間にその部屋を新たなる拠点として落ち着いた。
そうして一年後に現地のミュージシャンを従え、ソロギタリストとしてアルバム『Masque』で86年にデビュー。正に夢を掴んだギター侍である。また、帰国後もミュージシャンではない別の肩書を持って、音楽シーンに多大なる貢献をしてきた人物だ。
デビュー30年周年記念ライヴとして、10月に開催されるメタルの祭典『LOUD PARK』のステージを再び踏むと同時に、そこでKUNIはミュージシャンのキャリアに有終の美を飾ろうとしている。それは非凡な音楽人生を歩んだ彼しか成しえない結晶であろう。青春期を共にした旧友であり、かつての隣人だった彼の集大成を惜しみながらも見届けたいと思う。
「幼少期」俺がなるのはポール・スタンレーだ!
—最初に…KUNIルーツを探る上で、土台となる幼少期の頃はどんな子供でした?
KUNI:まず幼少期は父親が大手ゼネコンの建設業界で転々としていたんだよね。各街の都市開発をやらされていたから、東京で生まれてすぐ福岡行って、その後は名古屋で、神奈川の生田、次が埼玉ね。転々としている中で…小さい時って習い事って色々やるじゃない?その時に柔道と、お袋からピアノもやらされていて、そんなに興味はなかったのね。ある時、小学校6年生くらいかな?レコード屋でKISSの『地獄の軍団』のジャケットをたまたま発見して「これなんだろう?」と(笑)。
元々、生田に住んでいた時に生田スタジオが近くて、仮面ライダーの撮影とか学校サボって見に行って、ショッカーの戦闘員と仲良くなり、スタントとか教わっていたんだよ!(笑)。それで「お前、ちょっと出てみる?」っていう感じになってチョイ役で「あ!ライダーだ!助けて~!」みたいな役を貰ったのね。もうその時からヒーロー物に憧れていて、KISSをなんだろう、この悪魔チックな連中は?と思いながら家に帰ってから「Detroit Rock City」を聴いた時は衝撃さ!毎日大音量で聴いていると気持ちいいんだな。お袋に近所迷惑だと言われながら「うるせ~」なんて言ってね(笑)。それで初来日のチケット買ったんだけど、盲腸で行けなくて、『ラヴ・ガン』が出てすぐ2度目の‘78年の来日を、武道館に観に行ったのがもう衝撃で…「俺がなるのはこれだ、ポール・スタンレーだ!」と決めた。
「渡米」本場のアメリカ行かないとKISSみたいになれない!
—‘80年代は日本からギター1本で海外に渡ってデビューした日本人って希少だったけど、そもそも渡米しようと思った一番の動機は?
KUNI:高校生になってからバンドやるようになってね。ちょっとプロの世界を覗いて見よう、ギターテック(ギターテクニシャン・ローディー)としてスタッフとして入り込めないかな?と、思いついて。その当時KISSの前座をしたBOWWOWの山本恭司さんのギターテックの募集とか…ダメだったんだ。Charさんとか色々ね。それでたどり着いたのがカルメン・マキ&5Xのギター、ジョージ吾妻さんのところで募集していて、ギターテックになったのね。
そうするとジャパン・へヴィメタルのムーヴメントが盛り上がり始めの頃、LOUDNESS、EARTHSHAKER、44MAGNUMとか、“ジャパン・へヴィーメタル・フェスティバル”でトリのゲストがY&Tだったんだけど、その時にLOUDNESSを観て上手いバンドがいるんだなと思った。LAZYの時はアイドルだったけど、最後のアルバム『宇宙船地球号』なんてかっこいいメタルのアルバムじゃんって思って。
5Xのエンジニアのダニー・マクレンドンはLOUDNESSのアルバムのプロデュースもやっていたから、ダニーのお付きでケアをするようになって、LOUDNESSのレコーディング・スタジオにも遊びに行くようになったんだ。そのうち、もう日本なんかにいてもダメだな、本場のアメリカ行かないとKISSみたいになれないなって思ったの。たまたまジョージさんもアメリカのストックトンのデルタ・カレッジに行って、ダニーのファミリーにお世話になったいきさつから、ダニーに俺もアメリカ行きたいと伝えたら快く受け入れてくれてね。ダニーの弟は後にUFOに入ったアトミック・トミーなんだけど、彼のギターの生徒がTESLAのブライアン・ウィートとフランク・ハノンだった。それから415ってトップ40 のカヴァーバンドみたいなのに、エリック・マーティンとかもいたわけさ。
それでストックトンには3ヶ月くらい住んだ頃、LOUDNESSやEARTHSHAKERもアメリカにレコーディングに来るようになってね。「KUNIがアメリカ行くなら僕らもアメリカ行かなきゃ」って!俺のほうが先なんだからね。で、彼らがレコーディングに来た時、俺もプロデュースの勉強をしたいと思って。その時のLOUDNESSのプロデューサーは俺の大好きなランディ・ローズや、Y&TやMEDADETHなんかを手掛けたマックス・ノーマンでね、レコーディング現場を観られるようになったわけ。LED ZEPPELINのエンジニアのアンディ・ジョンズ、Jimi Hendrixのプロデューサー、エディー・クレーマーとかね。スタジオに遊びに行っただけなんだけど。
LOUDNESSがまだアトランティックと契約する前に、ライヴをやるから手伝ってくれないかという話で、その時からギャラを踏んだくって手伝ったんだけど(笑)、STEELERってバンドとツアー回ったの。そういえば俺が初めてアメリカで見たライヴがSTEELERで、前座にジェイク・E・リーがいたROUGH CUTT、2番目がRATTね。STEELERにはその頃イングヴェイ・マルムスティーンがいてさ、凄いなぁって思って自分の練習量が増えたよ。LOUDNESSと回っていた頃にはイングヴェイ・マルムスティーンはALCATRAZZに入るんで、ギターはミッチ・ペリーに代わってね。その時に仲良くなったマーク・エドワーズとかに「メタルをやるならLAだよ!」って言われて、3ヶ月お世話になったマクレンドン・ファミリーにさよならを告げて、LAに移ったの。そこでGinger(筆者)って人と知り合って、向かいのアパートを紹介して貰ってそこに住むようになりました!(笑)

「全米デビュー」アメリカのメタル・ラジオで曲が流れて飛び上がったよ!
—そう、それからお互い夢に向かって…凄い交流が広がって、そして1年ちょっとしてデビューする話を固めてきたよね(笑)
KUNI:うん、それからまた色々な交流が出来たから、伊藤政則さんにデモテープを渡して「契約取ってきてください!」って半強制的にお願いして、軽く頼んじゃったのに苦労したと思うんだけど契約取って来て頂いて(笑)。そうこうしているうちに、TALAS観て、ビリー・シーンって凄いベーシストだなって思って。RAINBOW(バー)でQUIET RIOTのチャック・ライトに出会って、フランキー・バネリを紹介して貰ったんだよね。俺の憧れのランディ・ローズがいたバンドだからこれは完璧だぞって思ってね。マーク・エドワーズはビリー・シーンとのリズム隊でお願いして、最初はルームメイトだったANTHRAXの1stで歌ったニール・タービンに歌詞を書いて貰ったりして…ゲストをいっぱい入れるアルバムを作りたいなと思って。
—バンドじゃなくてね。
KUNI:僕が何故バンドでやらなかったかというと、憧れのギタリストであるジェフ・ベック、ゲイリー・ムーア、マイケル・シェンカーみたいにソロギタリスト名義で毎回違うミュージシャンとアルバムを作りたかったからなんだ。それが一番良かったかなと思って。2枚目はちょっとバンドっぽい音にしてくれって話が出たから固定のメンバーにしたんだけど。オジー・オズボーンにランディ・ローズやジェイク・E・リーを紹介したあのデイナ・ストラムにプロデュースをやって貰って、1枚目、2枚目はポリドールと芸能界で一番大手の渡辺音楽出版にお世話になったんだ。
1枚目出した後にそろそろライヴがやりたくなって、一発目のライヴはアメリカのロキシーでアルバムのメンバーでショーケースをやるっていうんで、フランキー・バネリとチャック・ライト、そして本当はジョン・パーデル(1stアルバムに参加。後にオジー・オズボーンやHEARTのプロデュースを手掛けた)に歌って貰いたかったんだけど、リック・スプリングフィールドのキーボーディストとしてツアー中だったんで、GIUFFRIAのデヴィッド・グレン・アイズリーを呼んでね。この時のパブリシティは伊藤政則さんが探してきたIRON MAIDENとか手掛けていたジャンセン・コミュニケーションにお願いして。それでNBCテレビジョンで全米放送されて、KNACのトーン・マスタリーが「When We Rock」をかけてくれた時、ちょうどハイウェイ運転していたんだけど、飛び上がるくらい嬉しかったよね!自分が書いてプロデュースした曲が、アメリカのメタル・ラジオでガーッと流れるんだからね、本当に車が事故りそうな勢いで嬉しかったですよー!(笑)
それで日本公演をやるなら小さなライヴハウスなんて絶対嫌だと言っていたら、たまたま『JAPAN AID2』(87年)の企画があって、DIOとQUIET RIOTとか、ジェームス・ブラウンやアイリーン・キャラも出たチャリティーライヴがKUNIの東京ライヴの初公演だったんだよね。その前にDIO主催の『Children of the Night』のチャリティーコンサートでもアーヴァイン・メドウス(LA郊外オレンジカウンティーの野外劇場)でもやっているの。その時のラインナップはFASTER PUSSYCAT、ARMORED SAINT、DOKKEN、QUIET RIOT、DIO、イングヴェイ・マルムスティーンなどと一緒にね。
—その後、ソロ名義じゃなくてバンドを組んだでしょう?
KUNI:その後ポリドールとの契約が切れ、改めて日系人のマネージャーを立てて、またバンドを組めと言われていたからPURPLE HEARTってバンドを結成したんだ。ドラムにエリック・シンガー(KISS)、ベースにBLACK SABBATHのデイヴ・スピッツ、ジャック・ジェームスってヴォーカルと、ポール・スタンレー(KISS)のソロ・ツアーでベース&ヴォーカルやっていたデレク・セント・ホルムズとデモテープ作ったりしてさ。
「帰国」お前らポリシーないのか、この野郎!ダメだな、こりゃ!
—もうその頃はだいぶLAメタルも下火になってシーンが変わっちゃった頃ですね。
KUNI:グランジブームに押されて、メタルやっていた奴が髪短くして短パンにTシャツ着ちゃって「お前らポリシーないのか、この野郎!」って思ったら、LA地震やロドニー・キング暴動とかあってダメだな、こりゃってなって、日本に帰ろうか考えていたの。93年ね。そんな時に毎年LAに来ていた音楽出版会社の取締役の人に「日本に帰ってバンドやるの?」って尋ねられたから「いや、日本人とバンドやるつもりなんて毛頭ない」って答えたら「じゃ、うちに来れば?A&R(Artist and Repertoire:アーティストの発掘や育成と楽曲の契約や制作を担当)って仕事がある」と言われたのね。でもリーマンなんて自分には無理だって思ったけど「大丈夫、大丈夫!」って入れてもらったの(笑)。
入社して3ヶ月後くらいにヴァージンがEMIと合併するんで、新しくできるユニヴァーサルに来いと誘われたんだけど「えー、俺は行きたくないよ!」って断って。ヴァージンがEMIと合併したら世界一の出版社になるって思って俺は残ったんだ。それでBON JOVIとMOTLEY CRUE以外、全部のメタル・バンドと契約した。そこに3年くらいいたかな。MEGADETH、GUNS N’ ROSES、METALLICA…もう殆ど、パンクムーヴメントのEpitaphなんかも契約したり。A&Rは全レコード会社と仕事するからAEROSMITHとか一ヶ月くらい一緒にいてステージサイドから観ていてね。
やっぱりレコード会社ってアーティストに対して、なんで今回このアルバムが売れなかったのかとか売り上げの部分なんか正直なこと言わないじゃない?だけど音楽出版社は中間の立場だし、俺は元アーティストだからリーマンと違って音楽の事はアーティストに対してビッシリ言えるわけよ。だからアーティストから信頼受けて、「あれ?お前、日本に帰ったんじゃないの?」って言われるくらい毎月LAに行って、帰ってくれば各プロモーターとツアーだからさ、「もう会社にいなくていいから。精算と報告だけしに来い」って言われていたくらい、働きやすい良い環境にいたよ(笑)。
「音楽出版社からレコード会社へ」エディ・ヴァンへイレンの前でギターを弾く
—それじゃすっかり音楽出版社の仕事に味を占めたわけですね(笑)
KUNI:出版社ってデモの段階から聴けるから音源手に入るのも早いんだよね!日本のレコード会社に音源が届くよりも、レコード作る前のデモの段階から聴けるから、こんないい仕事ってないなって思ったんだよね。でも金を出すのはレコード会社だから出版社には権限がないわけ。それもつまらないと思って出版社辞めて、今度はレコード会社にしようって思ってワーナーミュージック・ジャパンに入ることになった(笑)。ここで誰がいるんだろう?って思ったらVAN HALENがいるじゃないか!だからその時の担当に「これからVAN HALENは僕がやるから!」なんて言っちゃって、ハッハッハッ(笑)
—いかにもKUNIちゃんらしい(笑)!
KUNI:それでVAN HALENが3人目のヴォーカルと決めるのに悩んでいる時に、エディ・ヴァンへイレンの家まで行っちゃって「ピンポーン」なんて(笑)「誰だお前?」って言うから「KUNIっていうんだけど、日本から来たよ」なんて言って。そしたら「今、ゲイリー・シェローンって奴とやっているんだけど、ちょっと聴いてくれよ」と、5150スタジオに行く事になってね。VAN HALENの「Eruption(暗闇の爆撃)」なんかもう完コピしておいたから、彼の前で弾いて見せたら「最高だよ!」なんて言われて!
—え?エディ・ヴァンへイレンのギターで弾かせて貰ったのですか?
KUNI:エディ・ヴァンへイレンのギターじゃなくて自分で日本からギター持って行ったの。「俺はワーナーのA&Rとして来たんだけど、VAN HALENのデビューアルバムから自分で買ってコピーして、もう神様みたいな存在なんだよ。だから何でも言ってくれ、俺はお役にたちたい」って言ったら可愛がってくれてさ!そしたらデモの段階からエディ・ヴァンへイレンに意見を聞かれたり、逆に相談受けちゃって…。ワーナーのアメリカの社長が「誰だ、これ?なんか日本から変なのが来ていて、勝手にウロチョロされちゃ困るんだけど…」って日本のワーナーの社長に連絡が行ったみたいでさ(笑)。俺は社長に呼び出されてそう言われたんだけど「30年の歴史の中でエディ・ヴァンへイレンの家まで行ったのは今までお前だけだと。お前は好きにやれ」って言ってくれてね。
ワーナーはライセンスとかやらないんだよね。でも年に2回くらい特別にやらしてくれと申し出て、SKID ROWにいたレイチェル・ボランのPRUNELLA SCALESとか、HARLEM SCAREMはカナダのワーナーだったんだけど、担当するようになってね。これだと売れないから、もうちょっとこういうようになれ、なんて指示してMR.BIGのエンジニアやっていたケヴィン・エルソンがAEROSMITHのライヴ・エンジニアで来たんでHARLEM SCAREMのミックスやってくれって頼んだの。もう勝手に引っ掻き回していたんだから(笑)。向こうが原盤作っているんだけど、俺が口を挟んで変えちゃうの!
だけど日本のマーケットでね、その当時AEROSMITH、MR.BIGって40、50万枚なんて売れちゃうんだから驚異なんだよ、アメリカより売っちゃうんだから。アメリカのA&Rが「誰なんだ、こいつ」ってわざわざ会いに来るくらいだったんだ。例えばAEROSMITHが来るとゲフィンからジョン・カロドナーが「お前かよ、KUNIって!」って言ってくるんだもん。
—そこは元ミュージシャンとしての経験が活かされ、音楽的な貢献度が大きかったからでは?
KUNI:憧れのエディ・ヴァンへイレンやジョー・ペリーの1メートルくらいの距離で使っているアンプの音とかギターの弦高とか、リハの段階から俺が横で見ているわけじゃん?自分がステージで演奏しているか、していないか、もう変わりないんだよ。しかも毎週のように出張行って、レコーディングや雑誌BURRN!の取材、伊藤政則さんのラジオの通訳も手伝いや、ミュージシャンと食事に行って仕事の話をしたり、そんな日々だったなぁ。
「レーベルの立ち上げ」洋楽を何十万枚も売りまくる
—BIGM.F.レーベルの立ち上げについては?
KUNI:その後は98年にビーイングに入ってね。B’zの松本孝弘・稲葉浩志両氏とはほぼ同世代。あ、松本孝弘さんは2つ上だけど。よくコンサート会場で顔を合わせていたの。そろそろレコード会社の社長やりたいと考えて、ビーイングって日本で初めてインディーズとして立ち上げたレーベルだと思い、「俺のこと入れない?」って話してさ。その代りB’zの音楽制作はびっちり外タレのミュージシャンで固める代わりに、洋楽のレーベルやらせてくれって頼んだの。それがBIGM.F.ね。ビリー・シーンとかデレク・シェリニアン、ザック・ワイルドとかソロ・アルバムを出したいアーティストの為に立ち上げた。
当時SUICIDAL TENDENCIESにいたロバート・トゥルージロがオジー・オズボーンで来た時に、「MASS MENTALを作ったんだけどデモテープ聴いてくれない?」って言われて「じゃあ出してあげるよ」ってリリースしたんだ。そういうのやりたかったの。その後に彼がMETALLICAに入ると思わなかったしさ。みんな契約した時は安い契約金だったけど、そうやってステップにして大きなバンドに入っていったのよね。ブライアン・ティッシーだって、俺の経由でシャロン・オズボーンに言ってオジー・オズボーンに入ったんだよね。俺がニュートラルで、何て言うのかな、いい意味でのエージェントになったんだよね。こういうミュージシャンって数少ないと思うよ。
—帰国した頃の90年代は独特の流行のサウンドがあって、日本の音楽産業って特殊な感じだったと思うけど、それについてはどう感じました?
KUNI:日本の音楽なんて聴かなかったもん!帰国してからも毎月アメリカに行っているようなもんだし、日本にいても毎月ツアーだったから。その頃はロックファンの客も凄く入ったんだよ、南は福岡から札幌まで。MR.BIGやAEROSMITHなんて日本でツアーしたら一ヶ月半だぜ。だからもうずーっと遊びっぱなしだよ、ガッハッハ。
—遊びじゃないでしょ!仕事でしょう!(笑)
KUNI:まぁ、俺がミュージシャンだけやっていたらエディ・ヴァンへイレンやスティーヴン・タイラーに感謝なんてされないじゃん?それまでVAN HALENやAEROSMITHだって8万枚くらいしか売れていなかったのに、俺が担当になってから40万とか50万枚とか、ベスト盤なんて60万とか70万枚とかいくようになったんだぜ。B’zだってその当時日本で一番売れていたアーティストだからね!

「LAメタル全盛期の回想」キャッチーな曲、ファッションの良さで世界的に広まった
—色んな面で力を発揮しているのは、リアルタイムで全盛期のLAメタルシーンをすべて目撃してきた体験が土台になっているかも。あの時代を振り返ってみて改めてどうですか?
KUNI:やっぱり80sメタルってメロディーがキャッチーだよね。本当にポップだよ。だから万人に広まったんだと思う。あと、ファッションも凄くかっこよかったわけだ。女の子がパツンパツンのミニスカートでさ、あんなピチピチだったらデブれないよね!グランジになってから服装がタボダボの短パンにでかいTシャツ着るようになって、女の子はどんどん太ってきれいな娘いなくなっちゃったじゃん(笑)。
とにかくファッションと曲がキャッチーだから世界的に広まったんだと思う。レコーディング・バジェットも当時は金がかかっていたね。今のプロトゥールズを駆使すれば安くできるけど、リズムマシンなんか使っちゃうとドラムもいい音しないし、ツギハギだらけの音楽で若いアーティストとか…特にヴォーカリストなんて、頭から最後までちゃんと歌える奴なんて殆どいないじゃん。俺からしてみたら「ふざけんじゃねえよ!」って感じ。
当時はそんな切り貼りなんかできないから一発録りだろ?だから一生懸命練習して、限られたバジェットで夜中の安い時間帯にスタジオ使ったり…魂が入っているよね。クリックなんか使っていないからリズムも生の音なんだよ。CDは出てきた時代だったけど、俺のアルバムはカセット、アナログ盤、CDと3つあった時代でさ。今の子達はみんなiPhoneで聴いているんだからCDプレイヤーなんて持ってないんだよ。空気として聴いてないんだよ!今の子達が「アナログ盤ってなんですか?」って聞くから「レコード盤って言うのは、目を瞑って聴くと目の前で演奏しているみたいだよ。CDはレコーディング・スタジオで聴く音に近いんだよ、車とか密閉された空間ね」って教えてあげる。ウォークマンって言うのもあったけど、あれってカセットじゃん?アナログの音ってボリュームあげると一番でかい音が出るの。CDなんかボリューム5でもう上がらないじゃん。カセットは最大マックスでも低音が上がるからさ。
ライヴハウスも$5とかで見られる時代だったし、友達も沢山いたからタダで入れたり…毎晩行っていたよね?本当にいい時代だったよ!今の子達はなかなか日本に来ないアーティスト達のライヴをYouTubeで観られるような時代になったけど、俺に言わせてみれば生じゃないじゃん!やっぱり空気感って大事だよ!
「現在の音楽シーン」クラシック音楽以外、なんちゃってミュージシャン
—現在活躍しているBABY METALなど、今のメタルシーンについてはどう感じています?
KUNI:う~ん、まぁ、所謂アイドルとリンクするっていうのは今までメタル市場でなかった事だし、海外でもない。それをやり始めた日本の音楽業界は世界と比べてやっぱり賢いと思う。昔から基盤がある日本のマーケットでBABY METALやももいろクローバーZ、仮面女子なんかとへヴィーな音楽と融合させた商品を企画したマネージメント或いはレコード会社は利口っていうか。その企画をした人達は絶対メタル大好きなはずだよね!可愛いルックスだし、海外で一番認められている日本文化はアニメだもんね。欧米が逆立ちしても敵わない。何故かというとスターウォーズとか何にしろ、ゴジラやウルトラマンからヒントを得ているわけで、漫画も全部そうだよね。あればっかりは歴史が違うから。ロックとか音楽は日本人がコピーしているけど、アニメや特撮に関しては欧米がこっちのコピーをしているわけだから。
コスプレって言うのはハロウィンとか欧米にもあるけど、日本の女の子は漫画とリンクさせてやっているんでいいと思うのね。でも音を聴いてどう思うかって言うと、やっぱりへヴィーメタルと比較しないでくれって思う。あれは俺としては無視できないマーケットになっちゃったと思う。あれだけ海外でソールドアウトしちゃうんだから。音楽をどうこう言っちゃったらへヴィーメタルなんてゲテモノなわけだよね(笑)。ミュージシャンとして語るんであれば、本当の音楽って言うのはクラシックだけ。後は全部ポーザーなんだよ。クラシックやっていた俺からしてみれば、ジャズだろうがロックだろうが、あんなもんはみんな“おちゃらけ”なんだよ。本当のミュージシャンはクラシックやっている人だけ。それ以外は“なんちゃってミュージシャン”だね。
今のアイドルメタルについてどうかって問われたら、俺の男友達には理解できない人もいるけど、俺は別にいいと思う。あれを聴いて逆にロブ・ハルフォードって誰だろうってJUDAS PRIESTを聴くきっかけや、70年代、80年代の音楽を辿る橋渡しになるんだったら素晴らしい事だと思うよ。だからももいろクローバーZとKISSだってお互いの相乗効果だから利口だと思う。エンターテイメントなんて何でもありだよね!
「30周年記念&ラストステージ」メタル人生のすべてをさらけ出す!
—今回6年ぶりに『LOUD PARK』のステージで復活すると同時に、どうして引退を?まだ早いのでは?
KUNI:去年俺が影響受けたアーティストのライヴを10人くらい観たけど、55歳くらいからもう往年のピーク時のようにギターソロとか弾けなくなっているんだよね。それはアルコール摂取過剰で末梢神経の損傷と、年齢に比例してくるものだね。で、あくまでも自分の個人の意見であり、ギタリストのレベルとしての話だけど…観てがっかりしたんだ。ただ、ロックファンからしてみたら往年のヒット曲を生のライヴで観られるのは最高にいい事だとは思う。俺の場合はデビュー30周年を機にまだ2~3年は出来ると思っていたんだけど、当時のアルバムのレギュラーチューニングから一音下げないと歌えるヴォーカリストがなかなかいないんだよ。昔から知っているエリック・マーティンやグラハム・ボネットも候補の中にいたんだけどキーの問題があった。
そんな中で俺の年齢に近いジェフ・スコット・ソートと、トニー・モンタナ、ワーナー時代に手掛けたHARLEM SCAREMにいて、最近はジェイク・E・リーとRED DRAGON CARTELでやっているダレン・スミスを選んだんだ。3人のヴォーカリストだぜ!今回は初めて俺より若いメンバー揃いだね。俺の亡くなった親父が「男なら10歳くらい上の奴と勝負しろ」って言っていたんで、それまで一緒にやっていた相手は年上ばかりだった。
30年やってきて日本の音楽シーンの中から世界で活躍したソロギタリストって俺の他に出てこなかったよな。『LOUD PARK』だってソロギタリストと出たのは俺が最初だもん。その数年後にイングヴェイ・マルムスティーンでしょ。今年やっと3人目がウリ・ジョン・ロートね。だから俺が初代なんだよ。常に前衛って事。インタヴューを読む若い人の中で、海外を目指したい人にひとつだけ大先輩からのアドバイスをするなら「金がなきゃ無理だよ!」って事。貧乏人が向こうにリュックを持って行ったんじゃない。親もそこそこ金があって、ちゃんとしたサポートがあってこそ。プロになった頃には大手のプロダクションとレコード会社がいい音楽だけ作っていいよっていう、生活に支障をきたさないように金がびっちりあるからプロって言う言葉が成立するんであって、パトロンって言葉が汚く聞こえるかもしれないけど、そういうものがないとちゃんとした音楽っていうのは作っていけないよって事。
今回俺が復活するにも年明けからギターを週に5日間、セットリストを通して練習して、週に3日水泳して、これからもっと回数増やしていって、これだけ30年やってきたプロがここまで練習してステージに上がるわけだから、アマチュアの奴らがバイトしながらバンドやるなんて2万年早いと!無理!12000人をノックアウトするにはそんな甘いもんじゃないぜ!
—確かに…説得力ある(笑)!それでは記念すべき30周年記念と引退の舞台は、どんなステージを期待できますか?
KUNI:今までの30年の総括。俺のメタル人生のすべてをさらけ出すんで、選曲、演出、エネルギーから色々ね。ヴォーカリストだって3人いるし、2曲、2曲、ラスト5曲って感じで喉の負担も心配なんいんだから、ノーブレイクスのフルスロットル全開で、もうこんなライヴ観た事ねぇ、ってなるよ!