連載

TEXT & PHOTO:鈴木亮介
第23回 Stand Up And Shout ~脱★無関心~

Photo東日本大震災の発生から6年を迎えた。復興が第2ステージに進むにつれ、エンタメ界隈ではいっそうの”風化”が進んでいるように感じる。今や、震災復興をうたうイベントを都内で見かけたり、ライブハウスの店頭で募金箱を見たりすることはほとんどなくなった。もちろん中には継続して活動し続けているという人もいるが、徐々に下火となりつつあるのは確かだ。
 
しかしそれに対して「おかしい!」「ちゃんとやれ!」と声をあげることもまた、不自然であるように思う。人の感情を動かし、大きな成果を上げることができるのがエンタメの役割。だとすれば、その「感情の動かし方」、共感の集め方は何年も一つ覚えのままではいけない。
 
3.11以後の新たなまちづくりが注目を集める宮城県女川町に2015年春、とあるギター工房がオープンした。この地で国産ギターを量産、さらには販売までを一括して行うといい、これにより地域の新たな文化の発展や雇用の創出など、多角的な”復興”への貢献が期待される。メタル好きで知られる地元・女川町の須田善明町長を筆頭に、作家・平野啓一郎有安杏果ももいろクローバーZ)など各界から注目を集めるギターブランド「QUESTREL(ケストレル)」の第1弾モデルとなる「SWOOD(ソード)」を製造・販売する、株式会社セッショナブルの梶屋陽介代表取締役に話を聞いた。「被災地への”同情”で買ってもらおうとするのでは、長続きしない」と、あくまで冷静に語る梶屋氏の言葉から、第2ステージに進んだ復興のあり方を探りたい。
 

◆宮城県女川町
女川町は宮城県の東端牡鹿半島頸部にあり、太平洋に面した女川湾を囲むように位置している。面積は65.35平方キロメートル。海洋性気候のため比較的寒暖の差が少ないのが特徴。近海には世界三大漁場の一つである金華山沖漁場が控えており、沖合漁業、養殖業などが盛んな町として古くから栄えた。
 
高度経済成長期の終わりとともに町は高齢化が進み、昭和40年時点で1万8千人いた人口は、平成22年には1万人にまで減少。うち65歳以上の人口は3400人と、3人に1人が高齢者となっていた。
 
平成23年3月11日発生の東日本大震災により、町中心部は壊滅的な被害を受けたが、JR石巻線が平成27年3月に復旧。また、女川町一帯は東日本大震災後に創設された「三陸復興国立公園」地域に指定。奥州三大霊場の一つである『霊島 金華山』は近年パワースポットとしても人気を集めている。平成28年10月現在の人口は6334人、世帯数は3154世帯。”これまで以上の水産都市の実現”へ向けた復興が期待される。

 
女川駅周辺

 
—ご出身は鹿児島ということですが、もともと音楽は好きだったのですか?
 
Photo梶屋:ギターは昔から弾いてました。
 
—ロックに目覚めたのはいつ頃、どんなきっかけがあったのですか?
 
梶屋:小学校5、6年からギターを始めました。きっかけは、周りにも楽器をやってる友達がいて…という感じですね。その後バンドも組んで、当時流行っていた邦ロックを練習していましたね。
 
—それから大学進学を機に上京され、東京の楽器店に就職されましたね。
 
梶屋:はい。「どうしても楽器業界で働きたい!」といった強い思いがあったわけではなく、軽い気持ちというか。バンドをやっていたので楽器の販売の仕事はやりやすいかな、と思って選びました。
 
—楽器店では販売をずっとやっていたということですが。
 
Photo梶屋:そうですね。5~6年やっていました。
 
—モノを売るということ自体にはずっと関心があったのでしょうか?
 
梶屋:そうですね。働き始めてモノの売買を知りましたが、ギターを作りたいと思って会社を立ち上げたわけじゃないんです。30代で独立したいという思いがあって、どんな事業にしようかと考え始めてから、元々ギターが好きだったこともあり、ギターの製造・販売を軸にしようと決めました。
 
—梶屋さんと3.11というところも伺いたいのですが、震災時は東京にいましたか。
 
梶屋:はい。地震が起きたときは家にいて、ショッキングな映像をずっと見ていて、楽器店にいる立場から何ができるかなと思いました。仮に震源地があと100km南だったら東京がこういうふうになっていたんじゃないかと思って、東北と言っても近いところで起こっていて、こうなる可能性があったんだなと思いました。すごく近いところで起こっているような気持ちになって…
 
Photo—それで、何かせずにはいられなくなって。
 
梶屋:はい。地震のあと沿岸部に行って、それがきっかけでそのあと休みを利用して、ウクレレを集めて持って行ったりしていました。そのとき、「被災地に行きたいけどどうやって行ったらいいかわからない」というミュージシャンが周りに多かったので、沿岸部でイベントをやろうと思っている人とのマッチングを行いました。沿岸部ではダンスを頑張っている中高生がたくさんいますが、彼らは一流のものに触れる機会が少なかったので、こうしたイベントを通してそのスキルを磨き、地域で活躍できれば、その地域も発展します。
 
—ずっと被災地に関心を持ち続けていたわけですね。
 
梶屋:「関心」というとおこがましいですけど、自分なりに何かできることがあればという思いはずっと持っています。
 
—元々東北との接点があったのですか?
 
Photo梶屋:ないんです。「震災直後に東北に移住した」と思っていただいておりますが、そうではないんです。2013年に楽器店を退職した後、会社を作って東北に来たのが3年前の2014年です。前提として、一大決心をして東北に来た…とかではなくて、東北でも九州でも北海道でも良かったんです。新しい事業を起こすために東京ではない”地方”を考えていて、その中でご縁があって女川と出会うことができたんです。
 
—女川という土地が選ばれた、決め手は何だったのでしょうか。
 
梶屋:最初に町長室でプレゼンをしたときに「いいじゃないか!」とおっしゃってくださって、その後町の人たちにも資料を配ってお話しして、そこでも「いいじゃないか!」と。今まで全く楽器製造とは無縁だった土地にいきなり自分のような人間が来たら、普通は怪しく思いますよね(笑)。皆さん普通にあったかく迎えてくださって、集まっている人たちが新しいものをどんどん作って楽しんでいこうという空気感がすごく素敵な町だなと思って、この町ならいいものが作れると予感して、女川を拠点にすることを決めました。
 
Photo—それで2015年春に女川町にギター工房「GLIDE GARAGE」が開設されるわけですが、それに先行して、2014年11月末に仙台初の国産エレキギター・ベース専門店「GLIDE STORE」をオープンしましたね。
 
梶屋:製造より先にまずは販売拠点を確立しないといけないと考えたのです。販売拠点は都会じゃないといけないので、東北の中で一番の都会である仙台に、先行して販売店をオープンしました。店舗を作って1年をかけて軌道に乗るようになって、製品開発を始めました。
 
—その辺りの経緯を詳しく教えてください。
 
梶屋:最初にまず事業を考えて、その中でギターの製造から販売までを一括で行うという事業内容を固めました。現在、国内のギター業界は製造部門を負っているメーカーさんも少ないですし、卸売りの部門や小売りの部門が分業化しているので、一社一貫というビジネスモデルを実現したいと考えたのです。
 
Photo—なぜ「一社一貫」にこだわったのですか?
 
梶屋:今のギター業界では製造部門が幅を利かせづらくなっているように感じます。参入障壁が低い業界なので毎年何十もの企業が新規参入していますが、ノウハウも人も溢れていて、かつ製品の均一化という面では非常に成熟していて…要は、模倣が軸になっている業界なんですよね。
 
—そうですね。
 
梶屋:同一商品が多いと、結果的に価格競争が激しくなります。そうなると利幅の取り合いになるので、結局は顧客から一番遠い製造が儲からなくなるんです。これはギター業界に限らずですが。その中で、敢えて製造から挑戦したいと思ったんです。
 
—失礼を承知で質問しますが、勝算はあるのでしょうか。
 
Photo梶屋:売り方を変えるということと、「脱・模倣」をしっかり確立できていればしっかりと利幅を取れて、投資・拡大に回すことができるという好循環をイメージしています。日本の楽器事業はこの70年間で高いノウハウが凝縮されていると思うのですが、このまま製造が薄利のままやっていくとなると、その非常に高いレベルの技術が衰退してしまうと考えています。それは楽器店にいた頃から考えていました。技術の継承という点と、業界の発展のためにも「脱・模倣」が必要で、直販にすることで利幅が取れて、事業と人に投資できるように、製造から販売まで一貫して自社で行いたいと決意しました。
 
—それで、事業拠点を探して…
 
梶屋:そうですね。大枠が決まってから場所を探して、女川町を紹介していただき、一日で決まりました。
 
—東京ではなかったんですね。
 
Photo梶屋:私自身が種子島の出身ということもあり、地方でいいものを作りたいという希望がありました。ビジネス的な観点からも、固定費の高い都心にこだわる必要はないわけですし。それに、ギターの製造は「この地域でないとできない」という縛りはないので、むしろ楽器製造に無縁だった土地に製造拠点を作ることで、その地域に貢献できることがあるんじゃないかと考えたんです。
 
—なるほど。
 
梶屋:たとえば日本のギター製造業界では若手の職人が(働き口がなく)余っているのですが、そういう子たちの受け皿にもなるし、かつ、アジアやアメリカの大工場では”地元のおばちゃん”のような、いわば楽器の専門知識のない人もたくさん働いているんですよね。職種を増やすことも地域貢献になるし、音楽に関わる会社が地方で発展していけば自然とアーティストのイベント誘致もしやすくなって文化的な発展も見込めるし、地方でやる上でギター製造っていいな!って思ったんです。もちろんそのためには事業を拡大しないといけないので、継続的に発展した結果としてついてくるものだと思いますが。
 
Photo—その事業拠点がたまたま東日本大震災の被災地だったと。
 
梶屋:もちろんそれを考えなかったわけではありません。こういうビジネスモデルの拠点が被災地ならば、何かしら貢献できることがあるのではないかと。それで、東北沿岸部に拠点を探していく中で、女川町と出会ったのです。
 
—ここまでを振り返って、特にどんなことが大変でしたか?
 
梶屋:大変ということではないですけど、新しいギターを作るのはすごく大変な挑戦だなと思っています。新しい価値をどう作るか。これだけ成熟している業界で、素晴らしいギターも世の中にたくさんあるという中で、どのようにして新しい価値を作るか、試行錯誤して製品を決めていきましたね。素材もデザインもリソースが社内になかったので、いかに他社と連携するか、に重点を置きました。
 
—完全にオリジナルのギターということで、特にこだわったのはどんなところでしょうか。
 
Photo梶屋:“音と表現の革新”をテーマにしました。2000年以降のロックにフィットした音で、新しい音作りが提案できるギターというところに絞りました。2000年以降のロックといえばダウンチューニングですよね。そこに対していい音をどう作っていくか。それはクリアさと厚みだと。2000年以降のロックでは音圧のクリアさがいい音につながるとわれわれは定義して、それを追究していきました。
 
—それをデザイン面においても追究した?
 
梶屋:そうですね。人がギターを持つ姿も表現だと考えているので、そこも追究しました。ギターのデザインって代表的なものはこの70年間ずっと変わっていないわけですよね。70年もデザインが変わらない工業製品って、いい意味で異常だと思うんです。車でたとえたらフォードT型が今、町中を走っているようなものですからね。
 
—確かに…。
 
梶屋:家具でも車でも、10年経つと古いと感じると思いますが、ギターは70年間同じ形です。70年前のものを今でも作り続けているのは本当に珍しいことだと思いますし、70年変わっていないところに新たなデザインを提示するのは大変なことです。かつ、ダウンチューニングに対応するためには構造を変える必要があります。機能美…つまり、機能的でかつ見た目も美しいものでないといけません。かっこよく機能性も備えて…というところを同時に実現するのは大変でした。
 
Photo—社内にリソースがないとおっしゃっていましたが、最終的なデザイン選定はどのようにして行ったのですか?
 
梶屋:工業デザイナーの方に依頼しました。僕らがデザインしたら絶対に「何かっぽいもの」になってしまうと思ったのと、異業種というかギターにあまり関わりのない人、かつ機能性や構造を理解してもらえる人となったときには、工業デザイナーに依頼するのがベストだと考えたんです。それも、お願いするのなら一流の人に依頼したいと思って、奥山清行さん(=エンツォフェラーリやE6系新幹線などのデザインで知られる)に依頼することになりました。
 
—そして、今回のギター開発にあたっては東北の宮大工の技術が活かされているということですが、その点も詳しく教えてください。
 
梶屋:“クリアな音”という、私たちが狙っている音質を実現するためには、非常に高度な技術を一部分の加工に必要としました。そこで、その加工ができる人を探そうとしたところ、たまたま技能オリンピックで優勝した人が陸前高田にいると聞いて、当社の技術顧問になっていただきました。
 
—たまたま東北の職人だった、ということですか?
 
Photo梶屋:そうです。金属加工についても新しい合金を使っているのですが、音の厚みを高めるためにこういう素材がいいと考えていて、それを作った人がたまたま釜石の企業だったんです。東北のもので作ったからいいものができたのではなくて、いいものを作ろうとした結果、たまたま東北のものになったということだと考えています。
 
—実際に工房を構えてこちらで働くようになって、梶屋さんは女川という町にどのような印象を持っていますか?
 
梶屋:女川の人たちは本当にチャレンジングで、物事を楽しもうとする土壌があると感じています。たとえば水産会社の人はどんどん新しい製品や施設を作っていて、仕掛けの頻度や打ち出す規模が、すごく速いし大きいと思います。
 
—以前石巻を取材した際には「若い人がますますいなくなっている」というお話を伺いましたが、きょう女川の町を歩いていると、若い人の働く姿がよく見られました。
 
Photo梶屋:人口の絶対数で言うと少ないと思いますが、活気はあると思います。
 
—実際に女川で生活するようになって、日常生活でこれまでに住んでいたところとの違いを感じることはありますか?
 
梶屋:僕自身元々田舎の出身なので、田舎と都会の違いは理解していましたが、女川は住みやすいですね。
 
—どういうところが「住みやすい」と感じますか?
 
梶屋:駅の中心に物や人が集まっているので、少ない移動でいろんなことができるという住みやすさがあります。ここに行けばこの人がいるというのは安心にもつながりますね。
 
Photo—ここまでお話を伺っていて、「被災地のギターだから、ではなく純粋にいいギターを」という梶屋さんのこだわりには非常に共感を覚えます。
 
梶屋:ギターを買ってくれる方にとっては、そのギターをどこで誰が作っているかは関係ないことだと思います。ナッシュビルのように、ギター文化がその地に根付いているようなところはまた別ですが。そうでなければ、モノが良いか悪いかで買うか買わないかになるはずです。「東北のこの場所で作っているからモノがいい」とはならないはずで、そうでなく純粋にいいモノとして買ってもらうために製品開発を努力して、結果的に買ってくれた人が「女川ってところで作ってるのか」「作ってる町に行ってみようかな」となってくれたらいいなと思っています。結果的に復興につながればいいとは思いますが、製品を売り出す際に「復興のために買ってください」と打ち出してしまったら、同情でしか買ってもらえないので。
 
—「復興」を全面に打ち出すことで、結果的に「復興」にはつながらない、と。
 
Photo梶屋:一時期は売れたとしても継続して売れることはないと思います。先ほど雇用の話をしましたが、これも現時点ではまだおこがましい話だと思っています。実際にまだ女川の工房に常駐するスタッフは3名だけですし。ギターをコンスタントに売って事業を拡大した結果、雇用が増えることにつながります。そのためにはいいギター、売れるギターを追究するということに尽きると僕は思っています。
 
—震災から6年が経って「復興のための●●」も転換点を迎えつつありますね。
 
梶屋:色んな考え方があると思います。僕らはシンプルに、モノで勝負したいと思います。
 
—梶屋さんの今後の展望を教えてください。
 
Photo梶屋:3月には月産15本のペースで量産できるようになりますが、9月には月産30本に上げたいと考えています。これをキープしながら、早いうちに月産100本に上げてきたいです。そうすれば新卒の従業員も雇えるし、基本的には国内の実店舗やECサイトにとどまらず海外をターゲットに販売していきたいと考えています。地方のものづくりが代理店を経由せずにダイレクトに海外に行ける時代になった今、かっこよさの連鎖を作りたいです。
 
—「かっこよさの連鎖」とは?
 
梶屋:抽象的ですけど、かっこよさは数字だと思っているので、「売れてる」という数字を作っていきたい。かっこいいものを作っていると、作っている人もかっこよく見えると思います。製造の人たちがかっこよくなることで、作っている場所もかっこよくなれば、かっこよさが循環してモノの価値がますます高まっていって、かっこよさが広がっていく。そういうものを実現したい。そのためにはしっかりと数を作って売りきらないといけないですね。
 

Photo
 
GLIDE GARAGE
宮城県牡鹿郡女川町
女川浜字大原1−4 シーパルピア女川内

https://glide-guitar.jp/


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