特集

TEXT:鈴木亮介 PHOTO:本間加恵

都心から電車に揺られること1時間半。眩しい青空と、横長に広がる太平洋。そびえ立つ段丘に凛とした緑。海風が優しく、せわしない東京とは異なる、穏やかな時間を作る。
 
江ノ島、鎌倉、藤沢、茅ヶ崎、平塚…神奈川県の「湘南」地域。数々のミュージシャンが輩出された街だ。たとえ辛いことがあっても、小高い丘に登って、どこまでも続く地平線を眺めながら海風と日光を浴びていると、自ずと優しい笑顔になれる。コンクリートに四隅を囲まれた大都会では見失いがちな視野・視座を持ち、明日を夢見て希望を歌うことができるのが、湘南のミュージシャンだ。1991年、神奈川県藤沢市生まれの藤森翔平もその一人。
 
3ピースバンド・ラムチョップスのフロントマンとして、Galileo GalileiねごとThe SALOVERS片平里菜らを生んだバンドコンテスト「閃光ライオット 2010」決勝のステージに立った藤森翔平。結成から数カ月、19歳にして栄光を手に入れるも、その後は茨の道を歩む。バンドの解散、ステージから遠ざかる日々…そして2015年、ついに復活を遂げた。
 
忌野清志郎を担当した“ドカドカうるさいR&R宣伝マン”として知られる高橋Rock Me Babyに実力を買われ、彼が立ち上げた自由で型にはまらないアーティストのマネージメント&レーベルである「me and baby music」から、2015年7月8日(水)に1stアルバム『まぼろしの郊外』を全国リリース。地元・藤沢にとどまらず都内や関西でも精力的にライブ活動を展開している。
 
今回、本誌BEEASTではそんな藤森翔平にインタビューを敢行。かつてラムチョップス時代にはライブ活動の拠点の一つでもあった下北沢の街頭での撮影も行った。”キヨシローと働いた男”の心を動かした藤森翔平とは何者か。そして、彼の作る音楽の魅力は。藤森翔平の生涯初となるインタビューは、下北沢「風知空知」の全面協力の下、テラスの一画を貸し切って行った。
 

藤森翔平(ふじもり・しょうへい)
1991年、神奈川県藤沢市生まれ。現在、24歳。湘南のオルタナティブ吟遊詩人。海の街で暮らす若者だから歌える時代のリアリティー。自身の活動をインターネット、限定EP 、ライヴ etcで発表。自由で型にはまらない活動は、やがて東京にまで届き、いつしかオルタナ・シティーポップと呼ばれるようになる。タイトル曲「まぼろしの郊外」は、江ノ島~藤沢を通して、いま直面している世界を若いアーティストの視点で歌っている。レコーディング~ジャケットまで、すべてを江ノ島海岸で制作。音大出身のオーセンティック・ジャズのリズム隊&クラシカルでありながら斬新なピアノ、ビーチサイド・クロスオーバーなギターをバックに、藤森翔平のメッセージ突き抜ける透き通った声とアグレッシヴなアコースティックギターがのっかる生音だけで構成された現代の江ノ島サウンド。ポップミュージック、ロックンロール、ジャズ、カントリー、レゲエ、ブルース、ノーザンソウルetc、ノンジャンル。正にニュー・オルタナ・シティーポップ!特に生きづらい世の中を生きる若い人たちの気持ちを鮮明な情景描写で切り取った歌詞と、波のように寄せては引いていくメロウ、そして、それを表現する深海のように透き通った声に注目が集まっている。

 

 

【第1章 ロックへの目覚め】 1日1曲制作~初めてのスランプ、そして100万円の請求
—今さらなんですが、音楽を始めたきっかけというのは?

 
藤森:14歳、中学3年の頃に友達の家でギターを弾いたのが最初ですね。それまでは卓球部でスポーツに打ち込んでいたのですが、夏の大会が終わって打ち込めるものがなくなっちゃって。
 

—卓球少年だったんですね!意外です(笑)

 
藤森:やりたいことがほしかったんです。それでギターを弾かせてもらって、面白いなって。面白いというか、感動したんです。「こうやって音楽ってできてるんだ」って。その友達の兄の部屋にたくさんギターやレコードがあって、色々教えてもらった感じです。
 

—そこから人前で表現しようと思うようになるまで、どのような経緯をたどったのでしょうか?

 
藤森:バンドを組んだのはそのあとすぐです。その友達と、クラスで一緒だったヤンキーの番長がバンドやろうと声をかけてくれて。最初はベースを弾きました。
 

—最初はベースだったんですね。

 
藤森:ギターも挑戦したんですけど最初は難しくて。卒業式の前日に初めてライブをやりました。
 

—それにしても、高校受験の真っ只中でのバンド結成ということで。

 
藤森:親は大反対でしたね(笑)。他のことが見えなくなっちゃって。これでやっていくんだって思ってました。
 

—曲を作り始めたのはいつ頃ですか?

 
藤森:高校に入ってからですね。元々絵を描くことも好きで、漫画家になろうと思ったこともあったくらい、ものを作るのが好きだったんです。最初に組んだバンドは中学卒業後に解散。最初はコピーばかりでしたが、自分の曲を作ってみたいなと思うようになり…。それで自分でバンドを組もうと思って、高校で一緒になった子に楽器を覚えてもらって。
 

—楽器を教えた?

 
藤森:いい感じの友達をみつけて、じゃあ君ちょっとベースやらない?って。当時軽音楽部はなかったし、部活をやっていない友達に狙い目をつけたんですよ(笑)。僕は曲を作ろうと思って、改めてギターに挑戦しました。
 

—初めて作った曲って覚えてますか?

 
藤森:最初は簡単な3コードで作りました。「少年ロック」というタイトルです(笑)。THE BLUE HEARTSみたいな曲でした。鬱屈した感情を吐き出しているような曲で、でも未来はあるよ、みたいな。ありがちな曲ですが、思い出に残ってます。
 

—その頃から一貫しているのかもしれないですが、藤森君の曲はいつも、ネガティブなものだけが吐き出ているわけではないですよね。

 
藤森:そうですね。終始一貫して完全にネガティブなものだと、僕自身がそういう音楽を聴けなくて。やっぱりどこかに希望がある音楽が好きなんですよ。映画でも最後に救われるストーリーが好きで。そういうところに根ざしていて、そういう曲しか作れないのだと思います。
 

—そこから曲を貯めていって。

 
藤森:そうですね。今よりも昔の方が曲がたくさん作れていたかな。当時は1日1曲くらい作れていて、自分は何でもできると思ってました。村上龍さんが言ってたんですけど、小説は1作目は誰でも書ける。2作目も書けるけど、本当に難しいのは3作目からだって。音楽も同じで、最初は何でもできて、自分は天才だと思う期間があって、その後壁にぶち当たって…そこから真価が問われるんじゃないかと思います。
 

—その「壁」は藤森君の前にも現れたことと思います。

 
藤森:そうですね。19歳か、20歳くらいでしょうか…
 

—高校時代はそれこそ「自分天才なんじゃないか?」みたいに、曲作りも楽しくて。

 
藤森:授業にも出ないで音楽にのめりこんじゃって。
 

—「このままバンドで食ってくぞ」みたいな。そのあたりの意識はバンドメンバーとは共有できていました?

 
藤森:どうだったんだろう…僕だけが突っ走っていたような気もするんですけど。僕が全部決めてあれやろう、これやろうと言っていたので、みんなは嫌々着いてきてたのかもしれない(笑)
 

—そんなテンションのまま走っていって…20歳前後に、どのような壁が立ちはだかったのでしょうか。

 
藤森:学生時代は色々なことへの不満や社会への苛立ちを音楽にすることでなんとなく納得できていたんですけど、社会に出て学校とかそういうものがなくなって、何に対して俺は怒ってるんだろう、って思っているうちに曲が書けなくなってしまって。
 

—今でもあると思うのですが、曲ができないときってどうやって乗り越えていますか?

 
藤森:その当時は引きこもって「どうしようー」ってなってましたね。今は自分でわかるようになって、できないときはできないから、無理やりノートに向かって書こうとするのではなくて、外に出たり色々なものを吸収してから「いつかできるよ」って楽観的に考えるようにしています。
 

—ラムチョップスで「閃光ライオット2010」に出演した時はまだ19歳でしたよね?時系列に沿って整理すると、その高校生の頃に作ったバンドは…

 
藤森:解散しちゃいました。求めている演奏ができなくて、もうちょっとうまい人とやろうというか…
 

—自分がやりたいことを共有するのは難しいですよね。

 
藤森:4人編成でしたがメンバーがコロコロ代わっちゃって、「お前にはついていけないよ」とよく言われてましたね(笑)。ベースは最終的に7歳上の人が入ってくれていました。藤沢に1つライブハウスがあって、そこの店長だった人なんです。ライブに出させてもらったときに「お前いいよ!」「じゃあベース弾いてください!」みたいな。その方はとても喋りやすい方で、僕のアイデアも受け入れてくれました。
 

—解散の引き金になったのはどういった出来事が…

 
藤森:ケンカしちゃったんですよ。これ言っていいのか…某インディーズレコード会社のオーディションを受けたら、速攻で契約書を書かされて、お金を請求されて。
 

—え?

 
藤森:100万円くらい取られたんです。それにみんなを巻き込んじゃったので、もう辞めようってなって。
 

—サラッと話してくれましたが凄まじいエピソードじゃないですか!19歳にして100万円の負債…

 
藤森:すごいですよね。バイトして返しました。
 

—あれですか、音源の制作費の前払いとか?

 
藤森:そうそう。あと、「ライブのノルマが30万」とか。ははは(笑)
 

—20歳そこそこで夢をつかもうとしている若者が悪い大人にむしりとられて…

 
藤森:悔しかったですね。大人を信用しなくなりました。ライブハウスの人さえ信じられなくて…でも、その後「閃光ライオット」に出て、本当の、ちゃんとしたレコード会社の人とも出会えて「こういうものなんだ」ってわかって、不信感は消えましたが。
 

【第2章 栄光と挫折】 結成数カ月で全国区の知名度へ、しかし…
—そうですね。気を取り直して、ラムチョップス時代の話を伺っていこうと思います。まずは結成の経緯を教えてください。

 
藤森:2010年の2月頃に前のバンドが解散になり、新しいバンドであるラムチョップスを組んだのはその2カ月後です。「閃光ライオット」というバンドコンテストに応募するために結成しました。100万円獲ろう!って。
 

—取られた100万円を取り返そう!みたいな。

 
藤森:そうですね(笑)。僕の中でそういう気持ちが結構ありました。
 

—その姿勢は先ほどの曲作りの話にも通じるところがありますね。ネガティブなものに打ち負けてしまわずに、それを原動力にして希望を見出していこうという。メンバーはどうやって集めたのですか?

 
藤森:一番最初に話した、僕にギターを教えてくれた友人がベースに転向していたので、一緒にやろうと誘いました。そしてその友人の紹介で、隣の中学校にいたという同世代のドラムを呼んで、近所の3人で組んで。
 

—幼馴染のような関係性ですね。

 
藤森:お互い同じような音楽を聴いて育ってきたので、やりたいことも一貫していました。
 

—そこからトントン拍子に予選を通過し、決勝の舞台に進んだわけですが。決勝は東京ビッグサイトの野外ステージで、普段のライブハウスとは桁違いの規模で。

 
藤森:あれは本当奇跡でした。難しかったですね、音作りが。…僕、そのとき、声帯切っちゃって。
 

—うわ!実はその話は以前伺ったことがあるのですが、本当嘘みたいなことが起きましたよね。

 
藤森:一番の晴れ舞台なのに思うように声が出なくて、本当に自分に失望しましたね。
 

—決勝までは絵に描いたようにうまく進んでいたのに、最後の最後で…

 
藤森:たたき落とされる!
 

—声帯切ってなかったらTHE★米騒動(=「閃光ライオット2010」のグランプリ)の上に立っていた可能性もあったわけですからね。

 
藤森:いや、そこはわからないですけど(笑)。声帯を切ったのは決勝の2日前で、練習で声を出しすぎちゃったんです。自分の声がどこまで出るのかまだ…最近やっとわかったんですが、無理なピッチを設定していて、当時の音源を今聴くと本当ヘタクソで。無理がたたったというか、もっと声が出るだろうって自分を過信していたのです。
 

—そうすると、「閃光ライオット」の後は達成感よりも失望の方が多かったのでしょうか?

 
藤森:そこでうまくいけば色々と次につながっただろうなと思うけど、結果を出せなかったので、また1からやり直しだなと思いました。
 

 

—ラムチョップスというバンドはその後、ベースとドラムがメンバーチェンジします。

 
藤森:コンテストに出るために結成したバンドだったので、それぞれの道に。でもせっかく名前もちょっとは知ってもらったし、このまま辞めちゃうのはもったいないなと思って、そこで(亀山拳四朗くんと、ドラムの(大井一彌くんにお願いして、3人で活動することにしました。藤沢のライブハウスにみんなよく溜まっていて、遊ぶ仲だったんです。
 

—第2期ラムチョップスはアルバムを3枚出して、かなり長く続きましたよね。

 
藤森:3年くらいですかね。ポップスを作ってみたくなったり、反対にものすごくロックな曲を作りたい衝動が起きたり、パンクになったり…自分の中で音楽性みたいなものが確立できてなくて。最近になってやっと自分の音程もわかってきたし、こういう歌が作りたいと思ってできたのが今回のソロ1stアルバムです。
 

—その「確立」に至るプロセスをもう少し伺いたいと思います。ラムチョップスは3rdアルバムを出した直後の2013年夏~秋頃に解散しましたね。

 
藤森:色々ありましたが、自分の体調が悪くなっちゃったのが一番の理由です。原因は全部自分にあって…
 

—音楽との向き合い方がうまくいかなくなった…というようなことなんでしょうか。

 
藤森:そうですね。その後組んだバンドもうまくいかなかくて、その後はソロ弾き語りでライブに出たりしていました。
 

—一回、一人になってみようと。

 
藤森:僕自身バンドを組むのがいやになっちゃって。人に迷惑をかけるのもいやだし、一人ならいいライブをやっても悪いライブをやっても全部自分一人の責任だし。
 

—ソロでステージに立ってみて、どうでしたか?

 
藤森:大変でした!全部一人で背負わなきゃいけないし、弾き語りだけでお客さんを引き込む力はバンド以上に求められるし。
 

—「深夜高速」のカバーを一人で弾いているのをYouTubeで拝見しました。ケータイカメラで撮った動画でさえものすごく引き込まれるものがありましたが、一方で、これを毎回ステージに立って続けるのは藤森君自身がキツいんじゃないかな、とも正直思いました。

 
藤森:一人でやるのも辛くなってしまって…結局ステージに立つのをやめて、半年くらい何もしない時期がありました。
 

—その「半年」も、全て今回の作品につながっているのかなと思います。ステージに立たない半年の間は、どんな日々を過ごしていましたか?

 
藤森:一人暮らしを始めたんですが、それもうまくいかなくて、荒れてましたね(笑)。何に熱中していいかわからなくて、無気力で。
 

—そんな生活が続いていたらきっと、ミュージシャン・藤森翔平は死んでしまっていたと思います。いったいどのようにして再起を図ることができたのでしょうか。

 
藤森:やっぱり、今のマネージャーである高橋 Rock Me Babyさんと出会えたことですね。ソロライブをやったときに来てくださって、「君の歌はいい」と言ってくださったことが嬉しくて、もう1回頑張ってみようかなと。
 

—そのあたり詳しく教えてください。

 
藤森:ライブをやったのが代々木のZher the ZOOというところで、そこでブッキングをしている田代洋一さんが以前『ロックな生き方』という忌野清志郎さんについての本を書かれていたんです。僕はそれを読んでいて、忌野清志郎さんのマネージャーだった高橋さんのことは知っていました。そうしたら田代さんが高橋さんをライブに招待してくださって、観ていただいたのがきっかけです。
 

—紹介してもらったんですね!それからどんな風に…

 
藤森:ライブをやめていた間も高橋さんから「やったらいい」と熱心に連絡を頂きました。「君の歌はいい歌だ!世界を変えよう!」と毎日のようにメールをくださって。
 

—熱いですね!

 
藤森:こんなすごい人がなんで僕なんかに、と思いました。栄養みたいなものをもらった感じですね。がんばろうと思えたのは本当に高橋さんのお陰です。
 
 

◆リリース情報
1stフルアルバム『まぼろしの郊外』
・2015年07月08日(水)~発売中
<収録曲>
M01. まぼろしの郊外
M02. イッツ・ゴナ・レイン
M03. ゆれるbaby
M04. 8月の丘
M05. Boy is on the road
M06. 15才
M07. ひこうき
M08. ハッピーデイズ・アンド・ハッピーナイト
M09. 忘れられない青
M10. センス・オブ・ワンダー

 
OTOTOYでも配信中
http://ototoy.jp/_/default/p/54011

 

【第3章 復活】 震災経て何もないまぼろしの郊外で…最後に希望を持たせたい
—高橋さんとの出会いからもう一度音楽と向き合うようになって、そこから今回のアルバムの制作が始まったと思いますが、「まずは曲を作ってみよう」という話になったのでしょうか。

 
藤森:曲は常に書き溜めていました。高橋さんと出会った2014年の夏頃、「まぼろしの郊外」という曲ができて、なんとなくその曲がずっと歌えるんじゃないかと思って、そこからライブも少しずつ始めていこうと思うようになりました。都内には出ず、地元のバーみたいなお店で少しずつ弾き語りを再開して。
 

—アルバムを作ろうと決めたのはいつ頃ですか?

 
藤森:今年(=2015年)の2月です。その少し前に4曲入りのデモを作って高橋さんに聴いてもらって、「アルバムを作ろう!」とおっしゃっていただけました。それからレコーディングが始まって…
 

—アルバムのタイトルにもなっている「まぼろしの郊外」という曲に、今の「藤森翔平の表現したいこと」が集約されているのかなと思います。改めて、歌詞の構成が面白いですよね。

 
藤森:ありがとうございます!
 

—全体的には「まぼろしの郊外」というイメージ、土台がありつつ、時々「不良少年とステレオとギター」みたいに違う角度からスパイス的に入るものがあって…でも終盤の「車もバイクもないけれど」から終わりに至る部分は全然違う話がくっついてますよね。いったいどのようにして作り上げていったんだろう?って…

 
藤森:3.11の震災があって、福島の警戒区域のことなんですけど…
 

—ああ、やっぱりそうなんですね。

 
藤森:それと、自分自身の心情を重ね合わせたらこういう詞ができました。はっきりとした意味はないんですけど、何もない空間というイメージです。
 

—言葉はすらすらと出てきたのですか?

 
藤森:これは10分で出来上がりました。
 

—最後の「夜明けの海を見に行こう 自転車にギターも担いで」というところがちょっと異質ですよね。

 
藤森:そうですね。つながってないんですけど(笑)、やっぱり最後に希望を持たせたいというのがあって、入れたかった言葉がこれなんです。街というか、明るい未来。ポジティブな気持ちで最後はつけました。
 

—なるほど、それを聞いて鳥肌が立ってるのですが、よく、抜け出したいほど酷い「現在」はリアリティをもって綴り、明るい「未来」は漠然としている…みたいな歌が巷にはあふれていると思うのですが、藤森君の「まぼろしの郊外」の場合は逆ですよね。「現在」の立ち位置をぼんやりと油絵のようににじませている反面、「未来」はものすごく明確で、「自転車」「海」とはっきり絵が浮かぶんですよ。リアリティがあり、それが説得力になっている。

 
藤森:ありがとうございます。
 

—「自転車」というのもいいですね!「車」や「バイク」ではないところが親近感があります。

 
藤森:どこか心の中に少年性みたいなものがあって、それを今回のアルバムでは表現したかったんです。「青春」です。
 

—それから2曲目「イッツ・ゴナ・レイン」のピアノ、個人的にこういうサウンド大好きです。

 
藤森:ありがとうございます。2曲目と、3曲目「ゆれるbaby」も去年作った曲です。夏ってたくさん曲が作れるんですよね。全く書けない冬と春とがあって…夏になるとバッて出てくるんです。気持ちが開放的になるからか…。
 

—全体的なコンセプトとしては、余計な音をそぎ落としていくというのでしょうか。ただシンプルなだけではないと思うのですが、このあたりのこだわりは?

 
藤森:エンジニアとプロデュースとドラムを担当してくれたうえまつしょういちさんの方向性でもあります。近年の「音圧戦争」に対極のアルバムを作ろうというコンセプトで始めて、クラシックな音に仕上がりました。
 

—無理に背伸びしないというか、等身大の自分にできること…という、それは藤森君が様々なスタイルを経て、時に心も痛めながら困難を乗り越えてたどり着いた答えなのかなと思います。実際に演奏していても気持ち良さは格段にあるのでは?

 
藤森:そうですね。感じます。歌も、無理に声を出さずにちゃんとした自分の声で歌っているので。このアルバムの中にはラムチョップス時代の曲も入っているのですが、それもキーを下げて歌っています。
 

—確かに、前からあった曲…6曲目「15才」もそうですよね。これはいつ頃作った曲なんですか?

 
藤森:これを作ったのは…10代の頃だったと思います。
 

—そしてちょっと戻りますが4曲目「8月の丘」と5曲目「Boy is on the road」は対照的な曲ですよね。「Boy is on the road」は歌詞にも出てくるくらいロックンロールな曲で。

 
藤森:優しさと強さ、対照的なものを並べてみたら面白いかなと。「8月の丘」はラムチョップスのときからあった曲で、「Boy is on the road」は去年作りました。今回はロックンロールが少ないのですが、次に作品を作るときにはこういう曲をもっと入れたいと思っています。
 

—人間って「こういう性格」「こういうジャンル、タイプ」って単純に理解できるものじゃないですよね。優しさ全開のときもあれば、きょうはちょっと強目の気分という日もあったり…

 
藤森:そうですよね。毎日違う人間ですよね。
 

—そして7曲目「ひこうき」という曲は、これは新曲ですか?

 
藤森:今回一番最後にできた曲です。アルバムのレコーディングの1週間前に作りました。これは正直「作らなきゃ!」と思って、時間がない中で…このアルバムの中に度々出てくる「丘」がまたこの曲にも入っていて。
 

—あれもこれも色んなことを言おうとすると散らばりますよね。でもこの曲が「また同じことを言っている」ようでちょっと違うのは、「昨日より今日を生きてきて 僕はどこまで来たんだろう」というフレーズがこのアルバムを総括しているようにも思えます。「誰のためでもなく歌い続けて」自分はここにいるんだぞ、と。

 
藤森:歌うたいの歌ですね。自分のことを歌ってます。
 

—色んなミュージシャンの方にインタビューしていて感じますが、やっぱり最後にできた曲は名曲が多いですよね!追い込まれて搾り出したときにその人の本質が表れるというか…

 
藤森:なるほど(笑)
 

【第4章 展望】 「僕は無農薬が好きなので」「10代のことはもう歌いきった」
—そして終盤怒涛の3曲。8曲目「ハッピーデイ・アンド・ハッピーナイト」と「忘れられない青」のギターフレーズがたまらないです。

 
藤森:アコースティックな曲ばかりになっていて、エレキギターも出したいなと思ったのが、この2曲です。「ハッピーデイ・アンド・ハッピーナイト」は1年前「まぼろしの郊外」と同じくらいの時期に、「忘れられない青」は「ひこうき」の1つ前にできた曲です。
 

—ギターいいですよね!

 
藤森:ギュイーンとかやりたいですけどね(笑)
 

—10曲目に「センス・オブ・ワンダー」が入ってますね。これはラムチョップスのラストアルバムに収録された曲ですが、歌い方がラムチョップス時代と比べて結構変わっていますね。

 
藤森:ラムチョップスの頃からはキーを下げています。歌詞も、ちょっと暗い、ネガティブな言葉が入っている箇所を一部削りました。アルバム全体を通して、今回は「街」というテーマにしたいなと思って。
 

—街というのは地元・藤沢を歌ったという…

 
藤森:いえ、街は自分の思い出とか自分の街で経験したことも入っているのですが、全曲を通して”まぼろしの郊外”という街なんですよ。
 

—なるほど。単純に郷土愛みたいなものではなくて。思い出というか原風景というか。

 
藤森:そうですね。
 

—レコーディングは順調に進んだのですか?

 
藤森:時間が短かったですけどスムーズにいきました。最初から「音数をいかに減らすか」というコンセプトがある中で、演奏してくれたメンバーも同じイメージを持っていたので、やりやすかったです。
 

—「4つ打ちでライブで盛り上がるダンスミュージックが…」みたいな世間の流行で、それこそ街頭のネオンサインのように「あっちが主張したらこっちはもっと強い色で主張する」みたいにどんどんプラスプラスっていう今の音楽シーンにおいて、「引き算」というのはある意味で冒険だったと思うのですが。

 
藤森:そうですね。
 

—そこで、決して自分たちの自己満足で終わらせず「売る」ことも意識しながら作ったわけですよね。

 
藤森:こだわりが強すぎてもだめだと思うんですよ。例えばニンジンだったら、同じクオリティは出さないといけないと思ってます。その中で、僕は無農薬が好きなので。今回のアルバムは極力音数を減らして、音圧をかけない、歌を前に出す、昔の録音の仕方でやってみたというのがコンセプトなので、そう狙って作った感じです。
 

—なるほど。やりたいことの軸はしっかりとぶれずに…文字で表すと難しいですが「いいものはいい」、実は答えはシンプルなのかもしれませんね。

 
藤森:音圧をかけていないので「音がペラペラ」と言われちゃうかもしれないけど、言葉だったり、もっと本質を聴いてほしいと思います。音楽の原始的なところに耳を傾けてほしいと思います。…でも、まだまだやれることはあるので。次はガラッと変えて音圧をかけた曲になるかもしれないし、電子音を入れてみたいとも思ってます。
 

—既に次回作の構想もあるんですね!

 
藤森:はい。今回は「藤沢、江ノ島で作りました」というコンセプトですが、次は東京のサウンドで作ってみたいと思っています。
 

—「東京のサウンド」というのは?

 
藤森:今回のアルバムと対照的なものが作れたらなと思っています。今回のアルバムで表現したかったことは自分の10代からのモラトリアム期間のことで、次は「大人になった自分」を表現したいです。
 

—今24歳?もうすぐ20代後半に差し掛かるわけですね。

 
藤森:はい。10代のことはもう歌いきったので。次は新しい、これからの生活を歌ってみたいと思います。
 

◆藤森翔平 Twitterアカウント
https://twitter.com/SyoheiFujimori
◆me and baby music 公式サイト
http://me-and-baby-music.com/
 
◆リリース情報
1stフルアルバム『まぼろしの郊外』
・2015年07月08日(水)~発売中
◆ライブ情報
・2015年07月19日(日)【神奈川】藤沢 ハゼの木広場
 ※13:00~、15:00~の出演
2015年08月15日(水)【東 京】Zher the ZOO YOYOGI

 

◆取材協力
風知空知
東京都世田谷区北沢2-14-2 JOW3ビル4F
TEL:03-5433-2191
http://fu-chi-ku-chi.jp/

 
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【PHOTOレポ】ラムチョップス@下北沢GARAGE
http://www.beeast69.com/report/73032